2018年 07月 14日
四代目・三遊亭小圓遊(1937~1980)
四代目・三遊亭小圓遊(さんゆうてい こえんゆう)
落語家
1937年(昭和12年)~1980年(昭和55年)
1937年(昭和12年)、群馬県前橋市に生まれる。本名は、関根 尚雄(せきね ひさお)。1957年(昭和32年)、東京へ移住し豊島区立西巣鴨中学校に転校。その後、東京都立文京高等学校へ進学。在学中は演劇部に在籍し、もっぱら人を笑わせ、落語家の素質を見せていたという。1954年(昭和29年)、東京都立文京高等学校を中退。1955年(昭和30年)、4代目三遊亭圓遊に入門。三遊亭金遊を名乗り、落語家デビュー。1958年(昭和33年)、二つ目に昇進。1964年(昭和39年)、JRN系列で月曜日から土曜日の13時から18時に放送していた昼ワイドラジオ番組『オーナー』の「落語天気図」コーナーにレギュラー出演。「お天気や金ちゃん」として人気を得る。1966年(昭和41年)、5月15日から日本テレビ系で放送された『笑点』に第1回から参加。前身番組の「金曜夜席」のレギュラーだった柳家きん平が自殺したため、その後任として選ばれた。『笑点』では、当時の司会者である立川談志の発案で「ボクちゃん」「巷では」などのフレーズを用いた顔に似合わないキザな若旦那キャラとして出演した。1968年(昭和43年)、真打に昇進し、4代目三遊亭小圓遊を襲名。 1969年(昭和44年)4月6日に立川談志とレギュラーメンバーで対立があり『笑点』を一時降板。その期間、自身主演の時代劇や、同時期に『笑点』を降板した5代目三遊亭圓楽主演のドラマなどに出演していた。小圓遊が降板してから7か月後の同年11月9日、談志の降板により、司会者が前田武彦へ交代したことで、大喜利でのライバルであった桂歌丸と共に大喜利メンバーへ復帰。以来1980年(昭和55年)10月5日に急逝するまで大喜利メンバーとして参加し続けた。復帰後の『笑点』では歌丸との罵倒合戦が名物となり、二人の罵倒合戦は『笑点』の高視聴率を打ち出す原動力の一つとなった。あまりに過激すぎる罵倒合戦に「歌丸と小圓遊を和解させてくれ」という声が相次ぎ、1972年(昭和47年)8月27日の放送で特別企画として司会の三波伸介と5代目圓楽の仲介による「手打ち式」が行われるも、すぐに仲違いした。しかし、実際は歌丸との不仲は番組を盛り上げるための番組内での演出であり、番組を離れての二人は1歳年上の歌丸から古典落語の稽古を付けてもらったりしていた。『笑点』では「ボクちゃん〜」で始まるセリフの「キザなキャラクター」を演じていた小圓遊であったが、実際は古典落語を得意とする落語家であり、そのキャラクターとのギャップに苦しんでいたとされる。小圓遊がギャップを埋めようと、プライベートでの服装を和装から洋装へ変えたりするなど試みていたがうまくいかず、次第に酒量が増えていった。元々酒は好きではなかったが、共演していた林家木久扇の証言では、「一緒に飲むと、酒量を気にする奥さんの眼を盗んで、まず相手のコップの酒を一気に飲み、自分はまだ飲んでいないと奥さんを安心させてから、自分のコップの酒を一気に飲む」という飲み方をしていたとされる。亡くなる10年以上前から糖尿病を患い、長期入院も経験。さらに、1975年(昭和50年)には、栃木県宇都宮市で交通事故に遭い、足を負傷するなど災難が続いた。出演し続けた『笑点』でも、酒浸りになっていたせいか呂律が回らなくなっており、収録時には一日中酒の匂いが消えなかったこともあった。そのため、段々と受け答えが悪くなっており、台本や編集、当時の司会者だった三波のフォローで何とか遣り過ごすことも多くなっていた。三波や当時のプロデューサーからは「酒を取るか、笑点を取るか」と迫られており、スタッフや共演者の真意を理解した小圓遊は収録前夜に酒を控えるなど、酒量が少なくなっていった。しかし、歌丸によれば1980年(昭和55年)の15周年ハワイ公演から帰国した際、空港から出てきた時に花壇のところで力なく座り込んでしまうほど健康状態が悪く、この時が歌丸が目にした小圓遊の生前最後の姿となったという。同年10月4日 、山形県村山市民公民館で行われた山形放送主催の「秋まつり爆笑大会」では、開演前から「気分が悪い」と訴えて二度吐血していた。主任を務めた昼の部では「蛇含草」を演じる予定だったが、マクラを語っている際に気分が悪くなり、約7分で高座を下りた。戻った楽屋のトイレで再び吐血し倒れ、16時50分、北村山公立病院へ緊急搬送。搬送時には既に生命が危険な状態であったため家族を呼んだが、待っている間は注射で眠らされるのを拒み、看護師達を相手に笑わせていたという。病院へ搬送されてからも、午後5時半から始まる夜の部が気になったらしく、プロダクションの関係者には「夜の部もやりたいよ。着物を着せてくれ」「点滴を受ければ大丈夫」「着物を探してくれ」と漏らしていたが、間もなく昏睡状態に陥った。翌日、家族も病院に駆けつけ枕元で回復を祈っていたが、19時44分、食道静脈瘤破裂により死去。享年43。10月19日放送の『笑点』では「小圓遊追悼大喜利」が行われ、小圓遊以外のメンバー5人(桂歌丸・林家こん平・林家木久蔵(現:林家木久扇)・林家九蔵(現:三遊亭好楽)・三遊亭楽太郎(現:6代目三遊亭円楽))で大喜利を行った。小圓遊の定位置には座布団と生前着用していた水色の色紋付が置かれ、三波や歌丸も終始、目を潤ませながら大喜利を進行していた。好敵手の歌丸は冒頭の挨拶で「碁敵は憎さも憎し懐かしし」と述べた。
去る7月2日、『笑点』を長年支えてきた功労者である桂歌丸がこの世を去った。歌丸といえば、三遊亭楽太郎との罵倒合戦が『笑点』の名物であったが、楽太郎の登場前に歌丸と罵倒合戦を繰り広げていたのが「キザの小圓遊」で人気を博した三遊亭小圓遊であった。しかし、本当の芸風は本格の古典派であった彼は、落語家としての姿と『笑点』のキャラとのギャップに悩まされ、果ては酒で体を壊すに至ってしまった。本格派としての評価を求めながらもバラエティーのキャラでしか評価されなかった悲運の落語家・三遊亭小圓遊の墓は、東京都台東区の寛永寺第二霊園にある。墓には「関根家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「欣笑院圓覚尚道居士」