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五所平之助(1902~1981)

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五所 平之助(ごしょ へいのすけ)

映画監督
1902年(明治35年)~1981年(昭和56年)


1902年(明治35年)、乾物問屋を営む父・平助と新富町で芸者をしていた母との間に妾腹の子として東京府東京市神田区鍋町(現在の東京都千代田区内神田3丁目)に生まれる。本名は、五所 平右衛門(ごしょ へいえもん)。5歳の時に本家の長男が亡くなり、母のもとを離れて後継ぎにされた。1919年(大正8年)、俳句に目覚め、作句をはじめる。慶應義塾商工学校在学中の1921年(大正10年)には、三田俳句会で原月舟、原石鼎の知遇を得て前田普羅主宰『加比丹』の同人となった。1921年(大正10年)、歩兵第1連隊に志願入隊し、見習士官で予備となる。1923年(大正12年)、慶應義塾商工学校を卒業。松竹の城戸四郎と出会い、父の友人の息子である映画監督・島津保次郎の口添えもあって、松竹蒲田撮影所へ入社する。島津の助監督を経て、1925年(大正14年)に監督に昇進。原作、脚本も手がけた『南島の春』で監督デビューを果たす。1926年(大正15年)、実母の薄幸な生涯を偲びながら、真の愛情に生きる二号の苦悩を描いた『彼女』がヒットし、出世作となる。1927年(昭和2年)には『恥しい夢』と『からくり娘』が評判となり、特に『恥しい夢』でブレイク前の田中絹代を主演に抜擢し、人気スターへと育て上げた。1928年(昭和3年)、『村の花嫁』で自然描写に卓越した手腕を発揮し、きめ細かな映画表現が高く評価された。しかし、その後すぐにスランプに陥り、失恋も重なって真剣にピストル自殺を考えるほど落ち込む。1931年(昭和6年)、日本初のオールトーキー映画『マダムと女房』を発表。田中絹代の「ねえ、あなた」という甘ったるい声を聞かせ、その持味を最大限に引き出すなど、得意の小市民劇を巧みな音声効果で処理し成功を収めた。以降、松竹蒲田撮影所きっての技巧派としての名声が高まり、小市民の生活をユーモアに描いた叙情性豊かな作品を次々と発表した。 1934年(昭和9年)、いとう句会が発足すると、中断していた作句に再び取り組み、作家の久保田万太郎の指導を受けながら作句に励んだ。映画においては、1933年(昭和8年)に川端康成の代表作の映画化第1作となった『恋の花咲く 伊豆の踊子』を発表。文芸映画台頭の先駆者となる一方、1934年(昭和9年)には社会派的側面を強く打ち出した『生きとし生けるもの』を発表した。1936年(昭和11年)、肺結核に侵されて数ヶ月間休養。『新道』で復帰を果たすも、感情の行き違いから城戸四郎と揉めて松竹を退社。1942年(昭和17年)大映に移籍。同年に撮った『新雪』は興行的にも大ヒットした。1945年(昭和20年)3月下旬、応召命令が下される。それまでも演習に何度か応召されていたが、赤紙が出たのはこれが初めてであった。歩兵第49連隊に向かうが、その翌日体格検査で病弱のため1年間延期とされ即日帰郷、そのまま終戦を迎えた。戦後、再び松竹へ復帰するが、『伊豆の娘たち』の1作限りで東宝に入社。恋愛ものの『今ひとたびの』などを発表するが、折から東宝争議が発生。五所は組合側につき、今井正、伊藤武郎、亀井文夫らと砧撮影所に立てこもったが、1950年(昭和25年)に争議が終結し五所は東宝を去ることになった。1951年(昭和26年)、平尾郁次らとともに独立プロ・スタジオ8を結成し、新東宝と提携した。1953年(昭和28年)、スタジオ8製作で椎名麟三の『無邪気な人々』を映画化した『煙突の見える場所』を発表。戦後の社会風俗と2組の男女の愛と連帯を描いた同作で、ベルリン国際映画祭国際平和賞を受賞した。これを機に椎名とのコンビで『愛と死の谷間』(日活)、『鶏はふたたび鳴く』(新東宝)を発表した。1957年(昭和32年)、原田康子のベストセラー『挽歌』を久我美子主演で映画化し、大ヒットさせた。同年、歌舞伎座製作による『黄色いからす』がゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞。1964年(昭和39年)、前年に逝去した小津安二郎に代って日本映画監督協会理事長に就任。以降、16年間にわたって務めた。1966年(昭和41年)、紫綬褒章を受章。1968年(昭和43年)、竹田人形座の協力によって作られた本格的な人形映画『明治はるあき』を監督。同作で芸術祭奨励賞を受賞した。1972年(昭和47年)、勲四等旭日小綬章を受章。映画監督としての傍ら、俳人として五所亭という俳号で「春燈」同人として活躍した。晩年は松尾芭蕉の『奥の細道』の映画化を構想していたが、実現化することなく1981年(昭和56年)5月1日、静岡県三島市にて死去。享年79。


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日本のトーキー映画の父ともいえる五所平之助。一貫して庶民の日常を描き、大衆に寄り添う作品を量産し続けた。また、田中絹代の甘い声と可憐さといった持味を最大限に引き出し、彼女をスターダムへと押し上げた。後年は婦人の縁で静岡県三島市に移住し、最後の作品も三島市民サロンの依頼で撮影した『わが街三島ー1977年の証言』であった。そんな庶民派の名匠の墓は、東京都港区の澄泉寺にある。墓には「五所代々之墓」とあり、入口に生前詠んだ句碑「生きることは 一と筋がよし 寒椿」が建つ。墓誌はない。

by oku-taka | 2018-06-25 00:27 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)