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初代・吾妻徳穂(1909~1998)

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初代・吾妻 徳穂(あずま とくほ)

舞踊家
1909年(明治42年)~1998年(平成10年)


1909年(明治42年)、十五代目市村羽左衛門と芸妓で舞踊家の藤間政弥の間の娘(庶子)として東京・銀座に生まれる(以上は通説で、田村成義『演芸逸史無線電話』に、藤間政弥がお竜と名のって歌舞伎座社長だった大河内輝剛の愛人であったことが書かれており、二代目市川猿之助も、大河内がほどなくがんに倒れた時、政弥に電話をかけたとあるので、実際の父は大河内であろうとする説もある。里見弴は『羽左衛門伝説』で、羽左衛門の父がルジャンドルであることを明らかにした上、徳穂が羽左衛門の子だというのは疑わしいとしている)。本名は、山田 喜久栄。3歳の頃から日本舞踊に興味を持ち出し、踊りの真似事をするようになる。その後、数えで6歳の6月6日から習事を始めると芸が伸びいう昔の言い伝えにより、この日を境に母から舞踊の手ほどきを受ける。その後、自分子供だと稽古が厳しくなってしまうという母の懸念と、踊りの基礎を養わせるために7代目坂東三津五郎、6代目尾上菊五郎に師事。1914年(大正3年)、「玉兎」で初舞台を踏む。12歳のときには、母のおさらい会で「三社祭」を披露。これが評判を得て、新橋の料亭からお座敷に呼ばれるようになる。1922年(大正11年)、藤間勘翁に踊りの名前である藤間喜久栄を許され、藤間流の名取りとなる。当時の名取りは舞踊の実質が伴っていないと許されないものであり、14歳で名取りの許しを得たことで天才少女と呼ばれた。1924年(大正13年)、幼馴染の佐藤ゆきが、当時の帝国劇場取締役であった福沢桃介の推薦を受け、筑波雪子の名で女優としてデビュー。このことに触発されて自身も女優になることを志し、帝国ホテル創業者・大倉喜八郎より名付けられた藤間春江の芸名で、帝劇7期生の女優となる。1927年(昭和2年)、細面で色白の美青年だった四代目坂東玉三郎に一惚れをする。初めてのラブレター書き、当時としては珍しいペアリング交換を行うなど夢中になったが、双方の親が反対し破局を迎えた。翌年、出演していた心座の舞台「飢渇」の演出を担当していた作家・今日出海に恋愛感情を持つ。厳しい指演出指導の反面、楽屋では勉強や自身の知らない文学を教えてくれる今に惹かれて結婚を夢見るようになるが、1927年(昭和2年)に松竹芝居で仮名手本忠臣蔵の三段目「落人」を踊った際に隣の楽屋にいた三代目坂東鶴之助(後の四代目中村富十郎)と恋仲になる。芸の道を極めることを求める母によって二人の恋が引き裂かれることを案じた徳穂は駆け落ちを決意。一度は失敗し自宅謹慎となったが、再び駆け落ちをし、そのまま二人は結婚した。1929年(昭和4年)には長男の一(後の五代目中村富十郎)を出産し、これを機に結婚を反対していた両親とも和解した。この頃から子供を養うため、当時の歌謡曲で踊る歌謡舞踊など新しい傾向の舞踊に取り組み、弟子をとり始める。1930年(昭和5年)には春藤会を結成し、舞踊家としての活動を本格化させる。1933年(昭和8年)、 吾妻流を再興。父を宗家として自身は家元となり、吾妻春枝(あづま はるえ)に改名した。同年、第8回春藤会で踊った「京鹿子娘道成寺」に感銘を受けた佐藤光次郎(藤間万三哉)が吾妻流に入門。内弟子となった光次郎は演出・振付の面で才能を発揮し、1937年(昭和12年)第13回春藤会のために作られた新作「舞踊劇かさね」を契機に互いを意識し合うようになる。1938年(昭和13年)、光次郎と駆け落ちをし、四代目中村富十郎との離婚成立を待って1939年(昭和14年)に結婚を果たした。 この一連の騒動によって芸能界では四面楚歌に陥った春枝であったが、同年に父の許しを得て吾妻流宗家を継承。その後、開催した第15回春藤会に於いて、母と踊った光次郎振付の「時雨西行」が好評を博し、舞踊界への復活を遂げた。1942年(昭和17年)、吾妻徳穂と改名。1950年(昭和25年)、長男・吾妻徳隆(5代目中村富十郎)に吾妻流家元を譲り、宗家だけの立場となった。1954年(昭和29年)、「アヅマカブキ」を創設。徳穂は宗家として欧米十数カ国・四十数都市で公演し、歌舞伎舞踊の海外紹介に大きな役割を果たした。その功績により、1957年(昭和32年)に芸術選奨文部大臣賞を受賞。しかし、万三哉の浮気が発覚し離婚。1959年(昭和34年)、アメリカの永住権を取得し、拠点をアメリカに移したが、1961年(昭和36年)に自動車事故に遭い、踊りを断念する覚悟で帰国。仏門に入る決意をするが、作家の真船豊に「尼さんになって雑巾がけするなら舞台の雑巾がけをしなさい。それほどつらいのを押し通してやらなきゃ芸術家じゃない」と諭され、1965年(昭和40年)第1回三趣の会を開催し、本格的な再出発を図る。同年、『道成寺三趣』で高い評価を受ける。1967年(昭和42年)、有吉佐和子作「赤猪子」で日本芸術院賞を受賞。1968年(昭和43年)、吾妻徳隆が家元を徳穂に返還。1976年(昭和51年)、紫綬褒章を受章。 1978年(昭和53年)、次男・山田元靖の娘・吾妻徳彌に吾妻流の家元を譲った。1982年(昭和57年)、勲四等宝冠章を受章。1991年(平成3年)、文化功労者に選出。1992年(平成4年)、NHK古典芸能鑑賞会で、武原はん、藤間藤子と荻江節の「松竹梅」を披露。80歳を過ぎても第一線で活躍し続け、1996年(平成8年)の米寿記念公演「吾妻菊米寿祝舞」が最後の舞台となった。1998年(平成10年)4月23日、死去。享年89。


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日本を代表する舞踊家の一人、吾妻流宗家・初代吾妻徳穂。伝統ある舞踊の世界に西洋の踊りの要素を取り入れ、古典はもとより新作舞踊でも独自の芸風を確立した。また、海外での公演も成功させ、日本舞踊の発展に大きく貢献した。一方、四代目坂東玉三郎や今日出海との恋、二度にわたる駆け落ち等、その人生は激しい恋に翻弄され続けた。恋に生き、芸に生きた天衣無縫の芸術家・初代吾妻徳穂の墓は、東京都台東区の谷中霊園にある。墓には「山田家先祖代々之墓」と「吾妻流先祖代々供養塔」の二基があり、徳穂は右側の五輪塔「吾妻流先祖代々供養塔」に埋葬されている。五輪塔の右側面には墓誌が刻まれている。


by oku-taka | 2018-06-24 20:10 | 芸術家 | Comments(0)