2018年 06月 17日
秋山ちえ子(1917~2016)
評論家・ラジオパーソナリティ
1917年(大正6年)~2016年(平成28年)
1917年(大正6年)、宮城県仙台市に生まれる。本名は、橘川 ちゑ(きっかわ ちえ)。生後8か月で東京に移り住み、1935年(昭和10年)東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)を卒業。国立東京聾唖学校の教師となる。一方、教師をしながら放送研究会のメンバーとなり、自作の童話を年に数回放送していた。1939年(昭和14年)、結婚。夫の勤務先である中国へ渡る。1943年(昭和18年)、長男が誕生。両親に子供を見せようと一時帰国するも、戦局の悪化で中国には戻れなくなってしまう。食糧難、買い出し、内職に追われる暮らしを送っていた秋山に、1948年(昭和23年)放送研究会のメンバーであったことが縁でラジオ『婦人の時間』に出演。翌年には、NHKラジオ番組『私の見たこと、聞いたこと』のレポーターを担当し、主婦の視点から見た日本の現状をわかりやすく説明した。1954年(昭和29年)には同番号で第2回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。1957年(昭和32年)、ラジオ東京(現在のTBSラジオ)で『昼の話題』のパーソナリティに就任。同番組では日々のささやかな話題から時事問題など幅広く扱い、特に終戦記念日で披露された童話『かわいそうなぞう』(土家由岐雄作)の朗読は大反響を呼んだ。1970年(昭和45年)には『秋山ちえ子の談話室』と改称。総放送回数12,512回、同一人物が45年に渡って放送し続けたのは世界的にも稀有な例であった。1962年(昭和37年)、勉強が苦手な子供を持った母親が、その子に無理に勉強をおしつけるようなことをせず、その子らしい生き方ができるまで辛抱強く育てあげる姿を実体験をもとに描いたノンフィクション小説『しあわせな子どものゆくすえ』を発表。進学熱が高まる時勢の中で、長男を大学に進学させずコック修行の道に進ませルという内容は時代に対する批判として注目を浴び、1964年(昭和39年)には『いつか青空』というタイトルでドラマ化された。1991年(平成3年)、第39回菊池寛賞を受賞。2002年(平成14年)、『秋山ちえ子の談話室』の放送が終了。帯番組終了後も毎週日曜日に続編『秋山ちえ子の日曜談話室』として続いていたが、それも2005年(平成17年)10月2日をもって終了した。この番組について報道機関各社の説明では「当初から3年間限定と決めていましたし、どこかでパッとやめた方が自分の信条に合っています」としている。このラジオ番組の回想録『風の流れに添って(ラジオ生活57年)』が2005年(平成17年)10月2日の放送最終日に講談社より出版された。ラジオパーソナリティ引退後は後進の育成・訓導を行っていた。また、毎年8月15日の終戦記念日にラジオで童話『かわいそうなぞう』の朗読を『大沢悠里のゆうゆうワイド』(TBSラジオ)で継続していた。また、古巣のNHKでも2005年(平成17年)12月にNHKラジオ第1放送『きょうも元気でわくわくラジオ』に出演したことが縁で、2006年(平成18年)4月から2008年(平成20年)3月の放送終了まで、村上信夫司会週の放送回に不定期ながら出演。この出演から、童話「かわいそうなぞう」の朗読も毎年8月NHKで行われるようになった。晩年は通院していたクリニックの定期健診に出向くのが難しくなるほど体力が低下し、ほぼ寝たきり状態となった。毎年夏に行われていた『かわいうそうなぞう』の朗読も2014年(平成26年)までは生放送で秋山による朗読が放送されてきたが、2015年(平成27年)は自宅にて朗読の収録が行われた。2016年(平成28年)4月6日、呼吸器感染症による肺炎のため東京都目黒区の自宅で死去。享年99。




永六輔、小沢昭一と並ぶTBSラジオの看板パーソナリティだった秋山ちえ子。『秋山ちえ子の談話室』は、時事問題や書籍など一つの題材について秋山が話すというスタイルで45年間無遅刻無欠席で放送された。特に同番組で披露された童話『かわいそうなぞう』を世間に広めた功績は大きいと思う。日本の暮らしに根ざしたオピニオンリーダーとして、女性ラジオパーソナリテーとして活躍し続けた70年あまり。女性放送ジャーナリストの草分けであった秋山ちえ子の墓は、東京都台東区の最尊寺にある。以前の墓には「秋山ちえ子」とあり、左端に没年月日が刻まれていたが、2018年(平成30年)4月に次男によって新しく建立し直された。その墓には、著書『種を蒔く日々』の表紙装画にあった丘の上に立つ一本の樹木と題字、「秋山ちえ子」の自書が刻まれている。


