2018年 04月 30日
天知茂(1931~1985)
天知 茂(あまち しげる)
俳優
1931年(昭和6年)~1985年(昭和60年)
1931年(昭和6年)、愛知県名古屋市山口町に生まれる。本名は、臼井 登(うすい のぼる)。芸事の好きな母親の影響で、幼い頃から芝居や映画に親しんで育つ。やがて俳優を志すようになり、1949年(昭和24年)東邦商業学校(現在の東邦高等学校)を卒業後、松竹へ入社。ここでは大部屋俳優以下の仕出し扱いを受け、通行人などをこなしたものの2年後に解雇される。1951年(昭和26年)、兄の勧めで第一期新東宝スターレットに応募し、合格。芸名をファンであった中日ドラゴンズの天知俊一監督と杉下茂投手から取り、天知茂とする。同期には左幸子・久保菜穂子・高島忠夫・三原葉子らがおり、これら同期の新人が次々と主演に抜擢される中、天知はここでもほとんど仕出し扱いで、最初の2年間は給料わずか5千円、兄からの仕送りがなければ暮らせい日々を送る。1954年(昭和29年)、蟻プロ制作の低予算映画『恐怖のカービン銃』で初主演。その後も脇役ばかりであったが、1955年(昭和30年)に大蔵貢が新東宝の社長に就任すると、経費削減の為、給料の高いスター級の俳優とは契約を打ち切り、脇役俳優に役が回ってくるようになる。天知もその一人であり、1957年(昭和32年)に『暁の非常線』で2度目の主演に抜擢。本作で悪役俳優として注目されるようになったが、当人は二枚目役を望んでいたので不満であった。1959年(昭和34年)、映画『東海道四谷怪談』で監督の中川信夫より民谷伊右衛門役に抜擢。迫真の演技力により注目され、その後は多くの主演作が作られるようになる。1961年(昭和36年)、新東宝の倒産に伴い、大映と本数契約。時代劇を中心に準主演級で活躍した。1962年(昭和37年)、『座頭市物語』の平手造酒役での個性的な演技で頭角をあらわす。また、田宮二郎主演の犬シリーズではコミカルなショボクレ刑事役をこなした。1964年(昭和39年)以降は兄貴分の鶴田浩二のいる東映の任侠映画でも準主演級で活躍。次第に役域を広げる機会に恵まれ、1966年(昭和41年)に出演した『眠狂四郎 無頼剣』では狂四郎の敵役として対等の存在感を見せた。原作者の柴田錬三郎は試写を見て「これは(自分の)眠狂四郎ではない」と語り、主演の市川雷蔵からも「どっちが主役だか分からない」と不興を買った。同年、「A&Aプロダクション」を設立(後にアマチプロゼに改称)。後に宮口二郎、池田駿介、五十嵐めぐみなどの俳優を輩出した。1968年(昭和43年)、三島由紀夫の依頼により美輪明宏主演舞台『黒蜥蜴』に出演。演じた明智小五郎役は生涯の当たり役となった。1973年(昭和48年)、NET(現在のテレビ朝日)で放送を開始したテレビドラマ『非情のライセンス』に主演。型破りな捜査方法で悪と戦う姿を描いた本作は大ヒットとなり、ハードボイルドの代表的スターとなった。また、『非情のライセンス』の主題歌「昭和ブルース」を持ち前の渋い低音で歌いヒットさせた。以降、刑事など社会正義派的な役どころがはまり役となり、ニヒルな渋さを漂わせた個性派俳優として地位を確立した。1977年(昭和52年)、テレビ朝日系の土曜ワイド劇場で連続放映された『江戸川乱歩の美女シリーズ』に明智小五郎役で主演。本作は人気のシリーズとなり、明智小五郎は天知でなくては務まらないほど高評価を得た。また、テレビ時代劇においても、映画界時代以来培ってきた安定感のある演技力で主演および主要脇役として活躍。『雲霧仁左衛門』『無宿侍』『江戸の牙』など連続ドラマやシリーズ物の主演を多数務め、TBS系高視聴率番組『大岡越前』では与力・神山左門役で存在感を示した。1982年(昭和57年)、中川信夫の監督映画『怪異談 生きてゐる小平次』の題字を手掛けた。1983年(昭和58年)、「アマチフィルム」を設立し映画製作に進出。自らも宇寿木純というペンネームで『秘蔵版 日傘の女』のメガホンをとった。明智シリーズも25作目を数え、時代劇やコメディドラマでも味を見せ、新たな映画製作の企画を進めていた矢先の1985年(昭和60年)7月27日、クモ膜下出血により渋谷区の日赤医療センターにて死去。享年55。
鋭い眼光と眉間に寄せた皺で世の女性方を虜にした名優・天知茂。「非情のライセンス」「江戸川乱歩の美女シリーズ」で演じた明智小五郎は今なお根強い人気を持ち、キャラクターのニヒルさは天知の代名詞ともなった。数ある出演作の中でも個人的に印象深いのは、角川映画『白昼の死角』。夏八木勲演じる詐欺師のトリックを見破り、徹底的に追い詰めていく天知の検事はとてもカッコよかった。また、その渋みのある低音を活かして吹き込んだ歌も最高で、『昭和ブルース』『ふたりづれ』なんかは何度聴いてもシビれる。絶頂期での急逝から30年、永遠のマダムキラー・天知茂の墓は、東京都世田谷区の龍雲寺墓地にある。墓には「臼井家之墓」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「天秀院茂道一徹居士」。今回このお墓に訪問して判明したのだが、天知の妻で新東宝の女優だった森悠子が2007年(平成19年)12月25日に75歳で亡くなっていた。天知と結婚後は女優を引退し市井の人となったが、フジテレビでお昼に放送されていたバラエティー番組『ライオンのいただきます』に天知茂夫人として一時期出演していたのでご記憶にある方もいらっしゃることだろう。芸能界きってのおしどり夫婦として知られた二人はいま、世田谷の閑静な住宅街の中でひっそりと眠りについている。