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宮田輝(1921~1990)

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宮田 輝(みやた てる)

アナウンサー・司会者
1921年(大正10年)~1990年(平成2年)


1921年(大正10年)、東京都足立区に生まれる。本名は、宮田 輝(みやた あきら)。1942年(昭和17年)、明治大学を卒業し、NHKに入局。NHK名古屋放送局勤務を経て、東京アナウンス室に配属。ラジオの報道番組を担当した後、1949年(昭和24年)から『のど自慢素人演芸会』(現在の『NHKのど自慢』)の司会を務める。1952年(昭和27年)、1月よりスタートした聴取者参加型の娯楽番組『三つの歌』の司会を担当。出場者の歌をリードする天池真佐雄のピアノ、宮田と出場者とのユーモラスな会話のやり取りが好評を博し、18年3か月も続く長寿番組となった。1953年(昭和28年)、先輩の藤倉修一の海外出張に伴うピンチヒッターとして『第3回NHK紅白歌合戦』の白組司会を担当。以来、通算15回にわたって紅組・白組・総合の全ての司会を担当し、紅白歌合戦の名物司会者となった。中でも紅組の司会を務めた1955年(昭和30年)は、男性の観客から「男の癖に女の方に加勢するとはけしからん!」といった趣旨の野次や怒号が宮田に対して頻繁に飛び交い、それらの野次は番組の進行に支障を来たす程の酷さであった。1966年(昭和41年)、全国各地を巡回し、毎回ゲストと共にその地方の郷土芸能や独自の文化などを紹介する公開番組『ふるさとの歌まつり』の企画・司会を担当。郷土芸能の保存やふるさと再発見にも寄与したとして評価され、宮田の穏やかでユーモラスな進行と活き活きと郷土への思いを語る各地の出演者の魅力も相まって、18年間に及ぶ長寿番組となった。また、この番組冒頭の挨拶「おばんでございます」というフレーズは当時流行語になった。1967年(昭和42年)には『ふるさとの歌まつり』の企画・司会が認められ、第15回菊池寛賞を受賞した。1974年(昭和49年)にNHKを退職。同年の参議院選挙に自民党から立候補しトップ当選を果たす。1975年(昭和50年)、NET系列で『宮田輝の日本縦断 ふるさと』がスタート。北海道から沖縄県まで日本各地を訪ね、その地にまつわる歴史・風俗・習慣・祭りなどを紹介しながら、その土地を代表する人物や出身タレントの話を通じて「ふるさと」を浮き彫りにしていくことをコンセプトにした当番組で初の民放出演となった。以降はフリーの立場で民放テレビ各局にも進出し、全日本有線放送大賞や『独占生中継 隅田川花火大会』などで司会を務めた。1978年(昭和53年)、第1次大平内閣で農林水産政務次官に就任。1986年(昭和61年)、第14回参議院選挙に出馬。全国区24位で辛くも当選を果たしたが、2年後に癌を発症し体調を崩すようになる。1990年(平成2年)7月15日、慶應義塾大学病院にて死去。享年68。


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芸能番組向けアナウンサーの先駆者として、高橋圭三と並ぶNHKのレジェンドアナウンサーである宮田輝。特にNHK紅白歌合戦で見せた七五調で歯切れの良い名司会っぷりは、歌の感動をより一層盛り上げてくれた。フリー転身後はNHK時代のような活躍を見せることができなかったように思う。その点ではライバルだった高橋圭三に大きく差を付けられてしまった。ふくよかな顔と柔らかい口調でお茶の間に親しまれた宮田輝の墓は、東京都港区の青山霊園にある。レリーフのような洋型の墓には「尊縁 宮田輝 恵美 ここに眠る」とある。妻・恵美は存命のため朱字となっている。墓誌および戒名はない。

by oku-taka | 2018-03-25 21:39 | テレビ・ラジオ関係者 | Comments(0)