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野沢那智(1938~2010)

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野沢 那智(のざわ なち)

声優・演出家
1938年(昭和13年)~2010年(平成22年)

1938年(昭和13年)、作家・陸直次郎の次男として東京府に生まれる。本名は、野澤 那智(のざわ やすとも)。中学生の頃に舞台美術に興味を持ち、家の近くにあった「明治座」という芝居劇場へ毎日のように通い、明治座から帰るとみかん箱を舞台に見立てたミニチュアを作って遊んでいた。その後、國學院大學政経学部に進学。大学3年生の頃からプロ劇団に出入りするようになり、大道具などの仕事を手伝わせてもらうようになる。ところが、その劇団の舞台美術家から「お前絵が下手だな。思いつきはいいんだけど。向いてないよ。やめろ」と言われてしまう。野沢はそれでも芝居関係の仕事がやりたかったため、今度は舞台演出家を目指すようになる。1958年(昭和33年)、大学を中退し、劇団「七曜会」に演出家研修生として入団。だが、主催の高城淳一に会った途端「とりあえず役者やれ」と言われ、いきなり舞台に出ることになる。また、当時誕生したばかりだった洋画の吹き替えのアルバイトを開始。俳優間では「俳優として、自分のオリジナリティを捨てている」と見下されていたが、後に野沢は「当時はテレビドラマも生放送だから、ドラマの仕事が来ると稽古やリハーサルで一週間は拘束される。でも、それじゃ舞台のための稽古ができない。吹き替えは一定期間で終わるから、時間的に効率のいいアルバイトだった」として積極的にやったとインタビューで語っている。1961年(昭和36年)、劇団「七曜会」を退団し、劇団「東芸」に入団。5ヶ月後には役者仲間を集めて劇団「城」を立ち上げた。初めて演出を担当するが、難しい演目ばかりやっていたため不入りが続き、たちまち運営に行き詰って劇団は分裂。製作の責任者であった野沢は3年間で370万円(現在の価値で2000万円ほど)の借金を抱え込む。その後はアパートを引き払い、友達の家を転々としているような生活で、15円のコッペパンで「今日は食べたぞ」と満足していたほどの赤貧生活を送る。借金返済の見通しも立たず困り果てたある日、野沢が銀座の街を歩いていると、劇団七曜会にいた頃の先輩である八奈見乗児と道端で偶然出くわした。野沢が「何か仕事がないですか」と聞いたところ、「お前、アテレコやれ。事務所は紹介するから」と八奈見に言われ、四ツ谷にある「東京俳優生活協同組合」に出向く。その頃、テレビ普及が本格化し、テレビドラマが黎明期を迎えており、人手不足からテレビの仕事に手伝いで呼ばれるようになる。しかし、その仕事は演出などのスタッフではなく俳優の端役であり、「人目に触れず出来る仕事はないか」と職を探しながらも「そんなコソドロみたいな仕事はない」と返され、渋々いくつかの映像出演や舞台出演を重ねた。特にアフレコの仕事は次々に舞い込み、1日3本もこなしたこともあった。1962年(昭和37年)、「ほとんどキャストは決まっているので落ちるから大丈夫」と関係者に勧められて『0011ナポレオン・ソロ』のオーディションを受ける。既にイリヤ・クリヤキン(デヴィッド・マッカラム)役は愛川欽也に決まっていたのが、ディレクターが野沢の出演している番組を偶然見て「誰だ?この女みたいな芝居する奴は」と注目し、配役を野沢に変更。『0011ナポレオン・ソロ』は視聴率40%くらいを取る大当たりになり、アフレコの仕事で借金が半分になったことから役者を辞めようと思い始めていた野沢は、役者をやめるわけにはいかなくなった。その後、数多くの吹き替えやアニメに多く出演したり、バラエティなどではナレーションも担当した。主に青年役を担当しているが、時に中年・老人役も演じている。アニメやゲーム作品においては、声質から『キングダムハーツ Re:チェインオブメモリーズ』のヴィクセンや『ルパン三世 ルパン暗殺指令』のジョン・クローズのような悪役を演じるイメージが強いが、『チキチキマシン猛レース』の実況ナレーターのような熱血漢、悟空の大冒険』のおかま三蔵法師など、様々な役柄をこなす。吹き替えでは、アラン・ドロン、アル・パチーノ、ウィレム・デフォー、ジュリアーノ・ジェンマ、ダスティン・ホフマン、ブルース・ウィリス、ロバート・デ・ニーロ、ロバート・レッドフォードの声を多く担当。特にアラン・ドロンは1969年(昭和44年)頃に初めて担当し。『日曜洋画劇場』で主にドロンを担当していた堀勝之祐などと比べ、ドロン担当として野沢は比較的後発の存在だったが、やがて1970年代後半頃から、ほぼ全局で野沢がドロンの吹替を担当するようになり、茶の間にも「アラン・ドロンの吹替といえば野沢那智」のイメージが浸透していった。1963年(昭和38年)、劇団薔薇座を設立。プロデュースと演出を担当し、ストレートプレイの上演に力を注いだ。1975年(昭和50年)に一度解散するも、1977年(昭和52年)にブロードウェイミュージカル作品を上演する路線に変更して再結成。同劇団から戸田恵子、玄田哲章、鈴置洋孝、難波圭一、石塚運昇、中村秀利らを輩出した。1967年(昭和42年)、TBSラジオの深夜ラジオ番組『パックインミュージック』でパーソナリティとして白石冬美とコンビを組む。初期は野沢が迷走的に話し続ける内容で作り手も苦しい状況だったが、リスナーに対して話題を求めるという当時としては画期的なシステムを編み出し、また野沢の独特の言い回しなどから徐々に人気となる。番組に投書されるハガキの内容も、猥談から食事、趣味、思想と多岐にわたり、その独特な内容のものが寄せられ話題を呼んだ。1982年(昭和57年)の放送終了時には熱狂的なファンも多く、番組終了決定の際にはファンがTBSへ抗議のデモをかけるほどだった。1988年(昭和63年)、劇団薔薇座第21回公演ミュージカル『スイート・チャリティ』で文化庁芸術祭賞を受賞。1995年(平成7年)、山田康雄の死に伴い、山田が吹替を担当していたクリント・イーストウッドを引き継いだ。2003年(平成15年)、声優・ミュージカルタレント・俳優を目指す人材を育成を目的に「オフィスPAC」を設立。2008年(平成20年)、第2回声優アワード功労賞を受賞。2009年(平成21年)、この頃から次第に体調を崩し始める。2010年(平成22年)7月頃までは後進の指導にあたっていたが、夏に精密検査を受けた結果肺癌を患っていた事が判明し、8月から入院。抗がん剤などで治療生活を送るも、容態は一向に回復せず、10月26日に都内の別の病院へ転院。この頃には、もう会話することすらできなくなっていたという。10月30日午後3時36分、妻や長男、親族、自身が代表を務める養成所の生徒達に囲まれながら、肺癌のため死去。享年72。


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甘い低音ボイスで人々を虜にしてきた野沢那智。アラン・ドロン、アル・パチーノ、ジュリアーノ・ジェンマ、ブルース・ウィリスといった俳優の声を当たり役とし、『ダイ・ハード』シリーズは野沢那智の声を希望する人は今なお多い。個人的には『Dr.スランプ アラレちゃん』のDr.マシリト、『新・エースをねらえ!』の宗方仁が印象に残っている。軟派から硬派、悪役からオカマまで、実に幅広い役柄をこなしてきた。また、テレビ黎明期から活躍している大ベテランにもかかわらず実にフランクで、ラジオやバラエティーでも全力でおちゃらけたことをやってのける人だった。その点においては、山田康雄、広川太一郎と並ぶレジェンドであると思う。多くの人の青春時代を彩った声のスター・野沢那智の墓は、東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園にある。墓には「野澤家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名はない。
by oku-taka | 2018-03-24 22:49 | 俳優・女優 | Comments(0)