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石ノ森章太郎(1938~1998)

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石ノ森 章太郎(いしのもり しょうたろう)

漫画家
1938年(昭和13年)~1998年(平成10年)


1938年(昭和13年)、宮城県登米郡石森町(現在の登米市中田町石森)に生まれる。本名は、小野寺 章太郎。幼少期から映画が好きで映画監督になることを夢見ていたが、手塚治虫の「新寶島」に出会い衝撃を受ける。以後手塚治虫の大ファンとなり、漫画の世界にのめり込む。また、3歳上の姉が生来病弱で外出もままならなかったことから、学校での出来事や外での見聞などを絵に描いて見せており、これが漫画の原点ともなった。中学生になると近所の子供を集めて漫画同人誌『墨汁一滴』を作るも、2号で廃刊。2年生の時、「毎日中学生新聞」に4コマ漫画を投稿し入選。これを機に投稿マニアとなる。1953年(昭和28年)、宮城県佐沼高等学校に入学。夏休みには『漫画少年』への投稿仲間を集めて「東日本漫画研究会」を設立し、肉筆回覧誌『墨汁一滴』を制作する。このころ既に漫画業界で「宮城県に天才がいる」と評判になっており、高校2年生の春には漫画少年の投稿が手塚治虫の目に入り、手塚からの「シゴトヲテツダッテホシイ」の電報を受け上京。中間テストをはさんで『鉄腕アトム』のアシスタントを務める。1954年(昭和29年)、手塚治虫の仲介が入り、石森章太郎のペンネームで『漫画少年』新年号にて掲載された『二級天使』で漫画家デビュー。厳格な公務員であった父からは漫画家になることを反対されていたが、姉が両親を説得するなど熱心に応援してくれたこともあり、翌年の高校卒業と同時に姉の病気治療も兼ねて2人で上京する。手塚をはじめ多くの漫画家たちが住んでいたトキワ荘に住み、作家活動をスタート。トキワ荘グループの男性陣の中では最年少ではあったが、最も早く頭角を現し、冒険物『幽霊船』、少女物『龍神沼』、超能力物『ミュータント・サブ』などを次々に発表。しかし、1958年(昭和33年)4月、トキワ荘で石ノ森と同居し、トキワ荘グループのマドンナ的存在となっていた姉が急逝。最大の理解者であった姉を失ったことは、後の作風にも大きな影響をもたらした。1959年(昭和34年)、手塚のアシスタントだった月岡貞夫とともに、手塚の身代わりとして東映動画(現在の東映アニメーション)の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に派遣された。石森は月岡とともに「このまま東映動画に入ってアニメーションをやりたい」と訴えたが、当時東映動画の若手スタッフだった白川大作から「(絵が個性的でアニメに向かないから)ちゃんと漫画をやれ。そのかわり漫画が売れたらそれを原作として買いに行く」と説得されて断念した。後にこのときの約束通り東映動画で作品がアニメ化され、さらに東映本体での特撮番組企画へとつながる東映グループとの接点のきっかけとなる。1962年(昭和37年)、トキワ荘を転出。藤子、赤塚らと共に長く住み、売れっ子作家に上り詰めた中でも、もっとも遅い時期までトキワ荘に住み続けていた。1963年(昭和38年)、鈴木伸一らとアニメーション制作会社「スタジオ・ゼロ」を設立。1964年(昭和39年)、代表作『サイボーグ009』の連載を開始。この頃にはすでにスター作家となっており、翌年に発表したマンガ入門書『マンガ家入門』は当時から広く読まれた。これは漫画の技術論から、具体的なストーリー構想術までが書かれた画期的な漫画家入門書で、長年の間漫画家志望者のバイブルとなった。1966年(昭和41年)、『ミュータント・サブ』『サイボーグ009』で第7回講談社児童まんが賞を受賞。1967年(昭和42年)、手塚治虫主宰の月刊誌『COM』に詩的ファンタジーを取り入れた実験作『ジュン』を連載。手塚治虫がファンからの手紙でこの漫画の評価を聞かれ否定的な評価を下し、それにショックを受けた石森は連載の打ち切りを『COM』の編集部に切り出し、手塚が石森に深く謝罪したことで知られる本作は、翌年『佐武と市捕物控』と共に第13回小学館漫画賞を受賞した。1971年(昭和46年)、特撮作品『仮面ライダー』の原作とその漫画化(仮面ライダー)を担当。既にある漫画の実写映像化ではなく、製作会社である東映の企画に設定とキャラクターデザインを提供し、できあがったものを元に漫画も執筆するというものであった。この成功をきっかけに同社における数多くの特撮・変身ヒーロー番組の原作を手がけることになり、『仮面ライダーストロンガー』以降の仮面ライダーシリーズや『アクマイザー3』『秘密戦隊ゴレンジャー』『ジャッカー電撃隊』など1970年代中期以降の作品では、主役などのレギュラーキャラクターのみならず毎回登場するゲストのキャラクターや敵の怪人のデザインも数多くおこなった。1981年(昭和56年)、日本漫画家協会理事に就任。1985年(昭和60年)、画業30年を機に「石森章太郎」から「石ノ森章太郎」に改名。もともとは「石森」で「いしのもり」と読ませるつもりだったが、誰も「いしのもり」と読んでくれず、「いしもり」の読みが定着してしまっていたため、初心に戻る意味をこめて改名を行なった。この頃、それまでは打ち合わせ・旅行・忘年会などの季節行事で関係者一同に頻繁に会っていたのが、改名した頃からはそれがなくなり、石森プロに連絡しても会わせて貰えなくなったことから、ほどなく関係者一同の間で「先生は御病気らしい」という話が広まったという。1988年(昭和63年)、『HOTEL』『マンガ日本経済入門』で第33回小学館漫画賞、『マンガ日本経済入門』で第17回日本漫画家協会賞大賞を受賞。1989年(平成元年)、この年に亡くなった手塚治虫に捧げた作品『風のように』の最終ページにて「萬画宣言」を発表。51歳のベテラン漫画家が発した「萬画とは森羅万象。あらゆる事象を表現できる万画(よろずが)」との宣言は大きな話題となった。1992年(平成4年)、悪性リンパ腫を発病。手術は行わず、点滴による化学療法を続けていたが、徐々に容体が悪化。1997年(平成9年)9月には入院となり、病院で『HOTEL』の原案を練ってアシスタントに指示を与えていた。その後、一時は退院して仕事に復帰したものの、11月後半に病状が悪化し再入院。1998年(平成10年)1月28日、リンパ腫による心不全のため東京・お茶の水順天堂病院で死去。享年60。没後、長年にわたる漫画界への貢献に対し、勲四等旭日小緩章が贈られた。


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世界一多作な漫画家として没後にギネス記録に認定された石ノ森章太郎。『サイボーグ009』、『佐武と市捕物控』、『さるとびエッちゃん』、『人造人間キカイダー』、『マンガ日本経済入門』、『HOTEL』など、SF漫画から学習漫画まで多岐にわたる分野の作品を量産し、漫画の王様として今なお高い知名度を誇る。そして、漫画を子供だけでなく大人が読んでも楽しめるものにした功績は非常に大きい。また、仮面ライダーシリーズを始めとする特撮作品の原作者としても活躍。あのモジャモジャなヘアースタイルからよくも色々な作品を生み出せるものだと感心したものだった。その膨大な作品数を見る限り、仕事が彼の寿命を縮めたように思えてならない。60年を生き急いだ人気漫画家の墓は、東京都豊島区の祥雲寺にある。墓には「萬 小野寺家」とあり、右横に墓誌が刻む。背後には2本の塔がそびえ、左側には009、003、佐武と市、仮面ライダー、ペンを持った石ノ森章太郎と24作品のキャラのイラスト、「森羅萬象」のレリーフがはめ込まれた記念碑が建つ。右側には石ノ森章太郎の功績が刻まれた碑がある。戒名は「石森院漫徳章現居士」
by oku-taka | 2018-03-10 23:55 | 漫画家 | Comments(0)