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石橋湛山(1884~1973)

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石橋 湛山(いしばし たんざん)

政治家
1884年(明治17年)~1973年(昭和48年)

1884年(明治17年)、東京市麻布区芝二本榎(現在の港区)に生まれる。出生名は、省三(せいぞう)。実父の湛誓は日蓮宗一致派の初代管長である新居日薩の門下で、現在の東京都港区高輪の承教寺に所在していた東京大教院(現在の立正大学の前身)の助教補を務めていた。1885年(明治18年)、父・湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現在の同郡富士川町)にある昌福寺の住職へ転じるため、母と共に甲府市稲門(現在の甲府市伊勢2丁目)へと転居する。1889年(明治22年)、甲府市立稲門尋常小学校に入学。3年生の時に初めて父と同居することになり、稲門から約20km奥まっている増穂村の小学校に転校した。1894年(明治27年)、湛誓が静岡市の日蓮宗本山青龍山本覚寺の住職に転じることになり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(現在の南アルプス市)にある長遠寺の住職・望月日謙に預けられる。以来、実質的な親子の関係は絶たれ、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかったという。1895年(明治28年)、日謙に勧められ山梨県立尋常中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)へ進学する。在学中は校友会の季刊誌『校友会雑誌』に論文を投稿。1900年(明治33年)6月発行の第八号において「石橋坐忘」の筆名で小論「石田三成論」を発表し、以来「石橋省三」「石橋省造」「石橋湛山」などの名で小論を発表している。また、同誌には学術部総会に関する報告も掲載され、湛山が総会において英文朗読・演説、文章の朗読・演説などを行っており、当時から政治・歴史などに関心をもっていた。1902年(明治35年)、2年落第による7年間在籍を経て山梨県立第一中学校を卒業。この頃、父が若かりし頃に弟子入りした山梨県の昌福寺という日蓮宗の寺院には古くから湛の字を名につけるならわしがあったことから、自身も湛山と改名した。4月、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)受験のため上京するも、同年7月の試験は不合格に終わる。翌年に再度受験するがまたもや失敗。その後、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格し、9月に入学した。1907年(明治40年) 、早稲田大学大学部文学科を首席で卒業。特待研究生として宗教研究科へ進級した後、1908年(明治41年)12月に島村抱月の紹介で毎日新聞社(旧横浜毎日新聞や旧東京横浜毎日新聞で、当時は『東京毎日新聞』を出している。現在の毎日新聞社とは無関係)に入社した。1909年(明治42年)、東京麻布の第1師団・歩兵第3連隊に「一年志願」兵として入営する。湛山ははじめ社会主義者と誤解され要監視兵の扱いを受けるが、後に誤解が解け上官・将校とも良好な関係を築き、彼らも石橋の「合理性」を評価したという。石橋は伍長に昇進し、軍曹として除隊した。石橋は入営中に軍隊の哲学に関心を持ち、社会生活・団体生活への順応性の重視を痛感したという。1911年(明治44年)、東洋経済新報社に入社するが、同年9月には自らの意思で見習士官として再入営。最終試験を経て1913年(大正2年)に歩兵少尉となる。その後は予備役となった。大正時代になると、石橋は大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人としていち早く「民主主義」を提唱。また、三・一独立運動をはじめとする朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張するなど(小日本主義)、リベラルな言論人として知られるようになる。1924年(大正13年)、東洋経済新報社第5代主幹となり、翌年1月には代表取締役専務に就任する。1931年(昭和6年)、東京経済新報社を中心とした経済倶楽部を創設。1933年(昭和8年)には経済倶楽部の会員により山梨県南都留郡山中湖村旭日丘に「経済倶楽部山中湖畔山荘同人会(経済村)」が作られ、湛山も山中湖畔に山荘を構え、夏期は同所において執筆活動を行った。また、部下の高橋亀吉と共に経済論壇の一翼を担い、金解禁に当たっては1円=金2分(1/5匁・0.75g。旧平価)での金本位制復帰に反対して、実体経済に合わせて通貨価値を落とした上での復帰(新平価解禁)を勝田貞次らと共に主張し、旧平価での復帰や財界整理を主張する池田成彬や堀江帰一、大蔵大臣として金解禁を旧平価で行う井上準之助と論争している。行政では、中央集権・画一主義・官僚主義との訣別を主張した。1935年(昭和10年)、内閣調査局委員に任ぜられる。1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発。以来、敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒める論陣を張る。同誌は署名記事を書くことが困難だった多くのリベラリストにも匿名での論説の場を提供。石橋や匿名執筆者の論調は常に冷静な分析に基づいており、かつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する特徴を持っていたため、同誌は政府・内務省から常に監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限されたが、廃刊は免れた。1941年(昭和16年)、東洋経済新報社の社長制新設に伴い、代表取締役社長に就任。戦争末期には、連合国の戦後構想に刺激を受け、戦後研究の重要性を石渡荘太郎蔵相に進言し、それにより設立された大蔵省戦時経済特別調査室で経済学者や金融関係者と共に戦後研究を行った。1945年(昭和20年)8月25日には、論説「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べた。10月13日、『東洋経済新報社論』で「靖国神社廃止の議」を論じて靖国神社の廃止を主張した。東京裁判ではGHQ・検察側が、高橋是清の経済政策が戦争に結びついたと主張したが、石橋は高橋是清の政策はデフレ不況を脱出するための政策であり、軍備拡張にはつながっていない、明治以来の政策と軍備拡張の政策は違うと主張。しかし、裁判では採用されなかった。1946年(昭和21年)、日本自由党から総選挙に出馬。落選はしたものの、第1次吉田内閣の大蔵大臣として入閣した。大蔵大臣在任時にはデフレーションを抑えるためのインフレーションを進め、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進した。一方、戦時補償債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題等でGHQと対立。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて、日本の国家予算の3分の1を占めている。このあまりの巨額の負担を下げるように、石橋は要求した。アメリカは、諸外国の評判を気にしたことと、以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減することとなった。戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は、国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、1947年(昭和22年)に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区(中選挙区)から当選したが、公職追放令をもってGHQにより公職追放された。1951年(昭和26年)の追放解除後は、石橋の公職追放に関わったとされる吉田茂の政敵であった自由党・鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。1952年(昭和27年)、戦後すぐに立正大学から懇願されていた学長に就任した。1954年(昭和29年)、第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任。1955年(昭和30年)、商工委員会委員長田中角栄のもと、戦後の財閥解体の根拠法令のひとつであった過度経済力集中排除法を、独占禁止法と置き換える形で廃止。11月には、日中輸出入組合の結成を支援した。石橋は中華人民共和国、ソビエト連邦との国交回復などを主張したが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。11月15日、保守合同により鳩山の日本民主党と吉田から継承した緒方竹虎の自由党が合同し自由民主党が結成され、石橋も合流入党した。1956年(昭和31年)、日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、12月で鳩山首相が引退。これを受けて、アメリカ追従を主張する岸信介が自民党総裁選に立候補した。これに対し石橋は、さらに中華人民共和国など他の共産圏とも国交正常化することを主張し、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。総裁選の当初は岸優位で、1回投票では岸が1位であったが、石井光次郎と2位・3位連合を組んだ決選投票では石橋派参謀の石田博英の功績もあって、岸に7票差で競り勝って総裁に当選。12月23日に内閣総理大臣に指名された。しかし、前述のような総裁選であったため岸支持派とのしこりが残り、さらに石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われ、組閣が難航。石橋自身が一時的に多くの閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足した(一人内閣)。「党内融和のために決選投票で対立した岸を石橋内閣の副総理として処遇すべき」との意見が強かったため、石橋内閣成立の立役者だった石井の副総理がなくなり、副総理には岸が就任した。内閣発足直後に石橋は「全国民を包括する総合的な医療保障」を演説した鳩山の路線を継承して、1957年(昭和32年)1月8日に国民皆保険を目指すことを閣議決定するなど福祉国家建設、さらに対米自主外交では日中貿易を促進する世界平和の確立などを基本とした「五つの誓い」を掲げ、具体的には経済政策では池田勇人を大蔵大臣に抜擢して「1000億円施策、1000億円減税」として積極財政を行うとし、全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。1月25日、帰京した直後に自宅の風呂場で倒れた。軽い脳梗塞だったが、報道には「遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候もある」と発表した。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2か月の絶対安静が必要との医師の診断を受けて、石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣した。1957年(昭和32年)度予算審議という重大案件の中で行政府最高責任者である首相が病気療養を理由に自ら国会に出席して答弁できない状況での辞任表明には、野党でさえ好意的であり、岸の代読による石橋の退陣表明を聞いた日本社会党の浅沼稲次郎書記長は石橋の潔さに感銘を受け、「政治家はかくありたい」と述べたと言う。石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王・桂太郎・羽田孜に次ぐ歴代で4番目の短さである。日本国憲法下において、国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した唯一の首相にもなった。後任の首相には岸が任命され、居抜き内閣として第1次岸内閣が誕生した。幸い脳梗塞の症状は軽く、若干の後遺症は残ったものの、石橋はまもなく政治活動を再開するまでに回復した。1959年(昭和34年)9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であり、日本政府とは一切関係ないものとする」と牽制されながらも中華人民共和国を訪問。前首相・衆議院議員とはいえ政府の一員ではない石橋は、訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処がつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談が実現した。冷戦構造を打ち破り、日本がその懸け橋となる日中米ソ平和同盟を石橋は主張した。この主張は、まだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意した。周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束。「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。1960年(昭和35年)、大陸中国との貿易が再開。この声明が後に日中共同声明に繋がったともいわれる。その後も少数派閥ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には、本会での議決を欠席するなどして、批判的な態度をとり自民党内ハト派の重鎮として活躍したが、1963年(昭和38年)の総選挙で落選し、そのまま政界を引退した。1964年(昭和39年)、勲一等旭日大綬章を受章。1966年(昭和41年)2月、手足に麻痺を感じ聖路加病院に入院。同年11月の自民党幹部・大久保留次郎の葬儀に参列したのを最後に外出記録はない。1968年(昭和43年)3月には立正大学学長を退き、一切の社会的活動から引退した。1970年(昭和45年)2月にも再び肺炎で聖路加病院に入院し、その後は鎌倉の娘宅や中落合の自宅で療養生活を送る。1971年(昭和46年)7月にはアメリカ大統領の特使ヘンリー・キッシンジャーが訪中し周恩来と会談すると、米中対話を支持するメッセージを発表。また、翌年7月には田中角栄内閣が成立し、日中国交正常化への機運が高まっていたが、田中は訪中以前に中落合の石橋宅を訪れており、田中訪中の結果、日中国交正常化が成立すると、石橋はこれを祝賀するメッセージを発表した。その後は病状が悪化。1973年(昭和48年)4月25日午前5時、脳梗塞のため自宅で死去。享年89。


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庶民派の宰相として期待されながらも、病気のため65日で退陣した石橋湛山。戦前は気骨あるジャーナリストとして日本に帝国主義への離脱と世界平和の実現を訴えた。今や戦後日本を代表するリベラリストとしての評価が高い石橋湛山だが、再軍備と憲法改正を訴えていたことは意外と知られていない。彼の場合、一貫して経済的視点からの主張をしており、その評価をリベラルとか保守などで分けられるものではないと思う。ジャーナリストから総理大臣にまで上り詰めた男・石橋湛山の墓は、東京都荒川区の善性寺と山梨県南巨摩郡の久遠寺に分骨されている。今回紹介する前者の墓には「石橋湛山 石橋家」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「謙徳院殿慈光湛山日省大居士」

by oku-taka | 2018-02-24 22:49 | 政治家・外交官 | Comments(0)