2018年 02月 24日
船越英二(1923~2007)
船越 英二(ふなこし えいじ)
俳優
1923年(大正12年)~2007年(平成19年)
1923年(大正12年)、東京府東京市四谷区内藤新宿(現在の新宿区)に生まれる。本名は、船越 榮二郎。四谷第五小学校から帝京中学校を経て、美術学校か写真学校に進学を希望するが、父親の勧めで1941年(昭和16年)に専修大学経済学部に入学。しかし、1944年(昭和19年)に学徒出陣で繰り上げ卒業。香川県三豊郡豊浜町(現在の観音寺市)の陸軍船舶学校に入り、翌年の8月に見習士官として終戦を迎える。その後は父親の勧めで地元新宿に写真屋を開いていたが、1947年(昭和22年)俳優となった兄の友人が冷やかし半分で大映第2期ニューフェイス募集に船越の応募書類を送付したところ合格。同年3月に大映東京撮影所演技研究所に通い、4月には大映と専属契約。『第二の抱擁』で折原啓子の恋人役で俳優デビューとなった。最初は出来心で俳優になったが、地元の新宿商店街に後援会まで発足してしまったので引っ込みがつかず、中途半端な心境のためか役柄も真面目青年しか与えられなかった。1952年(昭和27年)、出演した『安宅家の人々』と『秘密』の演技が好評を呼び、以降も二枚目俳優として大映のプログラムピクチャーに多く出演する。もっぱら主演女優の引き立て役が多かったが、1956年(昭和31年)の『日本橋』、翌年の『満員電車』と『夜の蝶』で演技派俳優としての才能を開花させ、それまでの単なる二枚目俳優から飄逸さと人間的逞しさを併せ持つ性格俳優となった。1958年(昭和33年)、長谷川一夫の姪で女優の長谷川裕見子と結婚。2年後には長男で後に俳優となる船越英一郎が誕生した。1959年(昭和34年)、大岡昇平原作、市川崑監督の『野火』に主演。役作りのために何日も絶食し、フィリピン戦線で飢餓の中を彷徨う敗残兵の演技は絶賛され、第33回キネマ旬報賞主演男優賞、第14回毎日映画コンクール主演男優賞など各映画賞を総なめにした。その後も『黒い十人の女』『破戒』『私は二歳』などの話題作に出演し、美男のルックスと個性を活かした様々なジャンルの作品でその役柄をこなす手堅い演技派として活躍。和製マルチェロ・マストロヤンニとも謳われ、大映に欠かせないスターとして約200本の映画に出演した。1965年(昭和40年)、息子・英一郎のぜんそく治療のために神奈川県足柄下郡湯河原町に住居を移し、会員制旅館「船越」を創業。俳優業の傍ら旅館の経営にもあたった。1971年(昭和46年)、大映が倒産。その後はテレビドラマに活動の場を移し、『時間ですよ』『熱中時代』『暴れん坊将軍』などジャンルに問わず出演し、いずれも代表作となった。1989年(平成元年)に紫綬褒章、1995年(平成7年)に勲四等旭日小綬章を受章。2001年(平成13年)のフジテレビ系ドラマ『旗本退屈男』の出演を最後に俳優を引退。その後は旅館に近い自宅で妻や娘夫婦と共に暮らし、旅館の経営も娘に譲って余生を過ごしていた。2007年(平成19年)3月15日、自宅で突然倒れ、すぐに静岡県内の病院に搬送された。当初は意識もわずかにあったが、16日夜に容態が急変し、3月17日午後10時57分、脳梗塞により死去。享年85。
昨年ワイドショーを席巻したは船越英一郎と松居一代の離婚騒動。その父、船越英二は大映の黄金期を彩ったスター俳優である。後年の船越英二は歳のせいか優しくてコミカルなおじさんを演じることが多かったが、かつては『黒い十人の女』のような女をたぶらかすだらしない男、『野火』のような飢餓と悲惨な戦争状況で極限状態に陥った敗残兵など、端整な顔立ちだけでない確かな演技力で数少ない実力派の映画スターであった。そんな人に「お口クサ~イ」と小さい子供に言われるポリデントのCMをやらせるなんて…と複雑な思いを抱いたが、コミカルな演技もできた船越英二だからこそ不快のないCMができたのかなと今は好意的に捉えている。船越英二の墓は、東京都新宿区の正受院にある。当初は神奈川県の湯河原に建立した墓に納められていたが、2013年(平成25年)の7回忌にあたり当時の息子の嫁であった松居一代によって新宿区に移された。五輪塔の墓には「船越家」とあり、両端に墓誌が建つ。諡名は「船越榮二郎英二翁命」