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漣健児(1931~2005)

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漣 健児(さざなみ けんじ)

訳詞家・シンコーミュージック・エンタテイメント元社長
1931年(昭和6年)~2005年(平成17年)


1931年(昭和6年)、東京府東京市牛込区(現在の新宿区)に生まれる。本名は、草野 昌一(くさの しょういち)。1951年(昭和26年)9月、早稲田大学第一商学部在学中に父・草野貞二が経営する新興音楽出版社(現在のシンコーミュージック・エンタテイメント)に入社。大学卒業後には戦後すぐに発刊したものの休刊中であった雑誌『ミュージック・ライフ』を復刊させ、初代編集長を務めた。1958年(昭和33年)、新興楽譜出版社専務取締役に就任。1959年(昭和34年)、自社の楽譜付き歌本に掲載する『赤鼻のトナカイ』の訳詞を「新田宣夫」の名義で手がける。翌年には「漣健児」と名を改め、坂本九に提供した『ステキなタイミング』で正式に訳詞家デビュー。以降、新興楽譜出版社の専務として活動する一方、様々なアメリカンポップスを日本語訳して当時の若手歌手たちに提供。田代みどり『パイナップル・プリンセス』、飯田久彦『ルイジアナ・ママ』、中尾ミエ『可愛いベイビー』、弘田三枝子『ヴァケーション』など次々とヒットを記録し、日本の歌謡界にアメリカンポップスブームを巻き起こした。1961年(昭和36年)、『ダウン・ビート』(アメリカのジャズ専門誌)の日本語版が創刊されたことをきっかけに、『ミュージック・ライフ』の内容を大幅に変更。それまでジャズや翻訳ポップスを中心に取り上げ、日本の歌手やバンドも紹介していた同雑誌を、米英のポップス・ロックの専門誌に特化させた。それにより、星加ルミ子、水上はる子、東郷かおる子といったロック好きの名物編集者を生んだ。また、ビートルズやクイーン、KISS、エアロスミス等を積極的に紹介し、本国よりも先に日本でブレイクするなど洋楽ブームに大きく貢献した。1965年(昭和40年)、音楽出版社から初めてJASRAC理事に就任。同年、『キューティ・パイ』で知られるジョニー・ティロットソンが来日し、同曲の著作権を持っていた草野のもとを訪れ曲の売り込みを行う。しかし、ピンとくる曲がないことからティロットソンのマネージャーに日本の曲を録音することを提案。「プロの作家で洋楽のフィーリングを持った人と言えばハマクラしかいない」と考えた草野は、当時コロムビアレコードの専属作曲家を解雇されて不遇の時を過ごしていた浜口庫之助に声をかけ、日本における外国アーティストの原盤制作の第一号『涙くんさよなら』が発表された。同曲はジャニーズ、マヒナ・スターズ、坂本九などが競作で出すほどのヒットとなり、このヒットで自信を付けた草野は専属制に縛られることなく原盤制作が出来る環境の実現に向けて動き出す。当時の日本では原盤制作は基本的にレコード会社が行なっており、原盤権もメーカーが全て持っていた。しかし、アメリカでは基本として出版社が原盤権を持つのが一般的だった為、草野も新興楽譜出版社で原盤制作を行いたいと考えていた。そして、マイク真木の『バラが咲いた』で音楽出版社として日本で初めて原盤制作を行い、1966年(昭和41年)に発売されて大ヒットなった。1969年(昭和44年)、ビートルズの『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』を訳詞しザ・カーナビーツに提供したが、主人公の「デズモンド」と「モリー」の名前を「太郎」と「花子」に置換したことでビートルズファンから顰蹙を買い、これを機に訳詞家としての活動に終止符を打つ。1973年(昭和48年)、出版社系が所属する日本音楽出版社協会(NOSK)と、日音、PMP(現在のフジパシフィック音楽出版)など放送局系が所属する全日本音楽出版社連盟(JAMP)の2つの団体を音楽出版社として統一する音楽出版社協会(MPA)設立に尽力。1980年(昭和55年)にはMPA会長に就任した。1998年(平成10年)、日本レコード大賞功労賞を受賞。1999年(平成11年)、藍綬褒章を受章。2005年(平成17年)6月6日午前6時55分、膵臓癌のため文京区内の病院で死去。享年75。


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日本にアメリカンポップスを広めた男、その名を漣健児。岩谷時子とともに洋楽のメロディーに日本語の詞を乗せるという「日本語ポップス」の源流を作り、山下達郎や大瀧詠一といった1970~1980年代に活躍したミュージシャンたちに大きな影響を与えた。その訳詞は、原詞に忠実なものでなく歌手に合わせたいわゆる「超訳」と呼ばれるものだったが、それによって誰もが口ずさめるメロディーとなった。また、知名度の低かったビートルズやKISSを日本に紹介して一躍ブームとさせた功績も特筆すべきことであろう。日本の音楽を世界基準にまで持ち上げた改革者・漣健児こと草野昌一の墓は、東京都台東区の東本願寺にある。墓には「草野家之墓」とあり、左横に辞世の言葉と自身が好きな曲が彫られた「マイ・エピタフ」という記念碑が建立されている。主に洋楽のナンバーで占められているが、日本の楽曲としてただひとつチューリップの『青春の影』が刻まれている。自身の会社に所属していたチューリップをアイドル路線で売ろうとしていた為、「青春の影」を発売することに反対していた草野が、自らの墓石に自分の好きな曲として邦楽で唯一この曲の名前を刻んでいるのは何とも感慨深い。墓誌は納骨所に刻まれている。戒名は「本徳院釋昌音」


by oku-taka | 2018-02-10 22:32 | 音楽家 | Comments(0)