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大鵬幸喜(1940~2013)

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大鵬 幸喜(たいほう こうき)

力士
1940年(昭和15年)~2013年(平成25年)


1940年(昭和15年)、ロシア革命後に樺太へ亡命したウクライナ人のコサック騎兵隊将校マルキャン・ボリシコと日本人の三男として、樺太の敷香町(現在のロシア領サハリン州ポロナイスク)に生まれる。本名は、納谷 幸喜(別名:イヴァーン・ボリシコ)。納谷は母方の姓で、幸喜の名は皇紀2600年に因んで名付けられた。1945年(昭和20年)、太平洋戦争の激化でソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船だった小笠原丸で北海道へ引き揚げる。最初は小樽に向かう予定だったが、母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船。小笠原丸はその後、留萌沖で国籍不明の潜水艦(ソ連の潜水艦との説がある)から魚雷攻撃を受けて沈没したが、大鵬親子はその前に下船していたため辛くも難を逃れた。北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しく、あまりの貧しさから大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた。その後、母親の再婚によって住吉姓に改姓。その再婚相手の職業が教師で学校を毎年異動していたことから、しばらくは北海道各地を転々としていた。しかし、再婚相手とは大鵬が10歳の時に離婚し、納谷姓に戻った。 中学校卒業後は一般の同世代の若者と同じ中卒金の卵として北海道弟子屈高等学校の定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていたが、1956年(昭和31年)に二所ノ関一行が訓子府町へ巡業に来た時に紹介され、高校を中途退学して入門。同年の9月場所にて初土俵を踏んだ。入門当初より柏戸と共に横綱確実の大器と評されており「ニ所ノ関部屋のプリンス」「ゴールデンボーイ」などの愛称を与えられた。序ノ口時代から大幅な勝ち越しで順調に番付を上げていき、1958年(昭和33年)3月場所では三段目で優勝。東幕下筆頭となった1959年(昭和34年)3月場所では6勝2敗と勝ち越して十両昇進を決めた。初土俵から本名の納谷で土俵に上がっていたが、昇進を機に四股名を付けてもらえることが決定。二所ノ関から、中国の古典「荘子 逍遥遊」にある「鯤之大不知其千里也、化而為鳥、其名為大鵬(鯤(コン、伝説上の巨大な魚)は大いに之(ゆ)き、その千里を知らずや、而して鳥に化けすと、その名は大鵬と」とあり「翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里の天空へ飛翔する)」と言われる伝説上の巨大な鳥に由来する“大鵬”の名前を与えられる。1960年(昭和35年)1月場所で新入幕を果たすと、初日から11連勝。12日目には小結の柏戸剛が「止め男」として当てられ、柏戸の出し投げに屈し、幕内での初黒星を喫した。その後、14日目・千秋楽と連敗したものの、12勝3敗の好成績を挙げ、敢闘賞を獲得した。同年3月場所で東前頭4枚目まで番付をあげるが、横綱初挑戦となった2日目の朝汐戦では寄り切られ、4日目には前場所優勝の栃錦に押し出されるなど序盤から横綱・三役陣に連敗を喫する。後半の平幕戦で盛り返したものの、13日目の福田山戦で負け越し、最終的に7勝8敗で皆勤負け越しとなった。続く5月場所は前頭6枚目に下がって出直しとなったが、初日朝汐を破って横綱挑戦3戦目で初勝利。生涯唯一の金星を挙げるなど11勝4敗で二度目の敢闘賞を獲得した。7月場所で新小結に昇進し、11勝4敗の好成績を収める。9月場所では20歳3ヶ月の当時史上最年少で新関脇となる。11月場所では13勝2敗の成績を挙げ、これも当時の史上最年少となる20歳5ヶ月で幕内最高優勝を達成。この場所でTBSアナウンサーの小坂秀二が「柏鵬時代」という言葉を発したことをきっかけに、それが一気に定着するに至った。新入幕から6場所目での初優勝は年6場所制以降では当時の最速記録であり、場所後に史上最年少で大関へ昇進した。同年、年間最多勝を獲得。1961年(昭和36年)、新大関となった1月場所は10勝5敗に終わり、13勝2敗で初優勝の柏戸に主役を譲って綱取りの面でも一歩を先んじられる形になった。しかし、翌3月場所からほぼ毎場所優勝争いにからみ、7月場所では柏戸と朝潮(元・朝汐)の難敵ふたりを連破して13勝2敗、大関としての初優勝を果たした。9月場所では12勝3敗、柏戸と平幕の明武谷との優勝決定戦を制して連続優勝。場所後、柏戸とともに横綱に同時昇進を果たした。大鵬21歳3ヶ月での横綱昇進は、それまでの最年少記録だった照國萬藏の23歳3ヶ月を更新するものだった。新横綱の場所となった11月場所、1962年(昭和37年)1月場所と連続優勝を果たすと、同年7月場所から1963年(昭和38年)5月場所まで最初の6連覇を達成した。ところが、「型のある相撲」と評されていた柏戸が休場を繰り返していたことで、「型のない相撲」の大鵬が一人勝ちしている状況から観客が減少気味となり、相撲の人気は低迷。NET(現在のテレビ朝日)、日本テレビ、TBSと相次いで大相撲中継から撤退し、神風正一などから「(大鵬の相撲には)型がない」と盛んに批判された。1964年(昭和39年)からは本態性高血圧によって幕内で初の途中休場となり、そのまま入院。さらに1965年(昭和40年)には、柏戸や北の富士勝昭と共にアメリカ合衆国から拳銃を密輸入していたことが発覚して書類送検され、罰金3万円(現在の15万円に相当)の略式起訴処分となった。この直後の5月場所は左足首関節内骨折で9勝6敗、千秋楽は休場して不戦敗となった。再起をかけた1966年(昭和41年)3月場所からは再び6連覇を達成。しかし、1967年(昭和42年)には左肘を負傷し、そのケガの分を取り戻そうと稽古で無茶をしたことで左膝靭帯断裂の重傷を負い、1968年(昭和43年)3月場所から3場所連続で全休した。復帰した同年9月場所では、初日に栃東知頼と対戦して敗れたことで周囲から限界と思われたが、慎重に勝ちを求めた結果、叩きを多用する相撲に変わった。同場所2日目から1969年(昭和44年)3月場所初日までの間に双葉山定次(69連勝)に次ぐ45連勝を記録。この連勝記録は、同場所2日目に戸田智次郎に押し出しで敗れたため途切れたが、ビデオ画像や写真では戸田の足が先に出ていたため「世紀の大誤審」と問題になり、この翌場所からビデオ画像の導入が始まった。しかし、大鵬自身は誤審の判定を下された件について不満を述べることはせず、むしろ誤審を招くような相撲をとった自分に責任があるとして、「ああいう相撲をとった自分が悪いんです」とだけ語った。この発言は、大鵬の高潔な相撲哲学を象徴する言葉として話題を呼び、横綱としての大鵬の評判を以前にも増して高めることになった。しかし、同場所5日目からは肺炎で途中休場となり、さらに肺炎の影響で肺機能が低下したことですぐ息が切れるようになってしまい、激しい稽古が出来なくなった。それでも1969年(昭和44年)5月場所には30回目の優勝を飾り、この功績を讃えて9月場所初日には日本相撲協会から一代年寄「大鵬」が授与された。1971年(昭和46年)1月場所には32回目の優勝を果たし、同年3月場所でも12勝と健在ぶりを示したが、同年5月場所で栃富士勝健に敗れた際に尻から落ちたことで体力の限界を感じ、さらに5日目には新鋭だった貴ノ花利彰に同じく尻から落ちる敗戦を喫した。その後、大鵬自ら翌6日目の福の花孝一戦を「これで自身最後の相撲としたい」と申し出たが、日本相撲協会から「死に体で土俵に上がる事は出来ない」と却下。結局福の花戦は不戦敗となり、貴ノ花との取組が現役最後の一番となった。引退相撲は10月2日に蔵前国技館で行われ、太刀持ちに玉の海、露払いに北の富士と、両横綱を従えて最後の横綱土俵入りが披露された。引退後は大鵬部屋を創立し、関脇巨砲丈士・幕内嗣子鵬慶昌たちを育成した。1976年(昭和51年)、35歳の若さで役員待遇・審判部副部長に就任。ところが、1977年(昭和52年)に脳梗塞によって倒れ、左半身麻痺などその後遺症が残ったことで理事長などの重要職に就任する見込みが無くなった。引退後に年寄名を「大鵬 翔己(たいほう しょうき)」としていたが、この病気を患って以降は現役時代の「大鵬 幸喜」に戻している。病気自体は不屈の精神で妻・芳子の献身もあってリハビリを重ねながら回復して歩ける程度には回復し、1980年(昭和55年)には理事に就任した。地方場所(名古屋場所担当)部長、さらには相撲教習所所長などを歴任し、8期務めた後の1996年(平成8年)に役員待遇へ退いた。2000年(平成12年)、自身と同様に「昭和の大横綱」と評される北の湖敏満(太刀持ち)と九重貢(元・千代の富士、露払い)の2人を従えて、還暦土俵入りを披露。ただし、前述の脳梗塞の後遺症から四股が踏めないため、土俵入りそのものは行えず、赤い綱を締めて土俵上で雲龍型のせり上がりの構えを取ることと、土俵中央に立って柏手を打つ(これも1回ではうまくいかなかった)という、一部の所作を披露したのみであった。2001年(平成13年)、サハリン州で自身の父親であるマルキャン・ボリシコの生涯が明らかになり、サハリン州の日本研究家の働きかけでウクライナのハリキフ市に大鵬記念館が建設された。大鵬自身もハリキフで相撲大会を企画しており、ロシアを挟んで日本とウクライナの国際交流の主役として脚光を浴びた。2005年(平成17年)、相撲協会を停年退職し、9年近く空席だった相撲博物館館長に就任。協会在籍中には理事長や執行部在任経験がなく、先に停年退職していた理事長経験者の佐田の山晋松と豊山勝男が健在にも拘わらず館長職に就いたのは異例の抜擢であった。また、大鵬部屋を娘婿の貴闘力忠茂に譲ったが、部屋名は「大鵬」が一代年寄であったので、もともと所有していた「大嶽」部屋とした。しかし、後に貴闘力は賭博問題で解雇となってしまい、その後は大鵬の直弟子の大竜忠博(最高位は十両)が部屋を継ぐことになった。2008年(平成20年)、体調不良を理由に相撲博物館館長を辞任。2009年(平成21年)、文化功労者に選出された。しかし、この頃から体調を崩すようになり、70歳に入ってからは自力で呼吸することが難しくなって酸素ボンベを頻繁に使用するようになった。晩年は入退院を繰り返し、車椅子での生活を余儀なくされるぐらい衰弱していった。2013年(平成25年)1月19日15時15分、心室頻拍のため、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去。享年73。没後、多年に亘る相撲界での功績やその活躍が社会に与えた影響などが評価され、日本政府から正四位並びに旭日重光章が追贈された。また、2月25日に国民栄誉賞が授与された。


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「巨人・大鵬・卵焼き」の流行語で知られる第48代横綱・大鵬。当の本人は「こっちは努力してあそこまでなったのに大勢で集まって勝ってる巨人と一緒にされたらたまらないよ」と言っていたのが何とも可笑しかった。そうしたユーモアを持ち合わせていた反面、引退直後に襲われた脳梗塞との闘い、ロシアから連れてきた愛弟子の大麻所持疑惑、娘婿の野球賭博関与による相撲協会解雇など、私生活は昭和のスターらしく波乱なものであった。そうした苦労を持ち前の忍耐で耐え抜き、72年の生涯を全うした。端正な顔立ちと圧倒的な強さで黄金時代を築いた昭和のスーパースター大鵬の墓は、東京都江東区の妙久寺にある。墓には「納谷家之墓」とあり、右側面に墓誌が彫られている。入口左側には生前大鵬が好んで使っていた「夢」の言葉と、入側右側には「大鵬」の名(両方とも直筆)と手形のレリーフがはめ込められている。戒名は「大道院殿忍受錬成日鵬大居士」


by oku-taka | 2018-02-03 21:20 | スポーツ | Comments(0)