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石橋エータロー(1927~1994)

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石橋 エータロー(いしばし えーたろー)

音楽家・コメディアン・料理研究家
1927年(昭和2年)~1994年(平成6年)


画家・青木繁の息子で音楽家の福田蘭童と、資産家であった石橋家の千代の長男として東京府東京市新橋(現在の東京都港区)に生まれる。本名は、石橋 英市。3歳まで大井町で育ったが、父の蘭童が映画撮影のために出かけたロケーション先で女優の川崎弘子を強姦するという事件を起こす。蘭堂は松竹蒲田撮影所の所長であった城戸四郎に責任をとるよう迫られ、千代と別れて川崎と再婚。このため英市は母と共に母の実家へ戻り、石橋姓となった。母が子連れの出戻りとして実家から差別を受けたため、英市も事あるごとに「居候ガキ」と呼ばれていじめを受けたが、その反面、金に糸目をつけぬ猫可愛がりを受けるといった複雑な環境に育った。母もまた英市に「父は死んだ」と言って聞かせて育てた。当時の石橋家は汐留駅の労務者400~500人をたばねて運輸業を営む仁藤組の看板を掲げており、当時の日本に何台しかなかったBernsteinのスペシャルピアノを所有していた。そうした環境下から、5歳でピアノを習うようになり、さらに母から長唄や三味線を教わる。1939年(昭和14年)、京橋の文海尋常小学校を経て、暁星小学校に転校。先輩に桜井センリ、後輩に犬塚弘がいた。1944年(昭和19年)、空襲の激化に伴い、母や母方の祖父と共に世田谷の九品仏へ転居。同年、それまで死んだと聞かされていた父が存命であるということを初めて知る。1945年(昭和20年)、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に入学。ピアノ科でクラシックピアノを学んだ後、声楽科に転じた。1947年(昭和22年)には長門美保歌劇団の第1回公演『蝶々夫人』にコーラスの一員として出演している。一方で、在学中に母に隠れて湯河原に父を訪問。この時は父から厚いもてなしを受けたが、その後まもなく母が英市の名義で父を相手取って小田原の裁判所に慰謝料請求訴訟を起こしたため、英市は父から憎しみを受けるようになる。1949年(昭和24年)、東洋音楽学校を卒業。当時クラシック界で生計を立てることが難しかったため、新橋のクラブで演奏したり、近所の子供にピアノを教えたりして生計を立てていた。やがて進駐軍クラブ専用バンド「ハニー・ジョーカーズ」のピアニストが急性肺炎で倒れたことから、知人であったマネージャーに拝み倒され、欠員の穴埋めとして開催されたオーディションに参加。それまでクラシック一辺倒でジャズは嫌いだったが、進駐軍クラブの豪勢な食事に釣られてジャズ好きに転じ、ジョージ石橋の名で代理ピアニストとしてジャズマンデビューを果たす。しかし胸を患い、闘病のかたわら演奏活動を行う。その後、自らのバンド「ザ・ファイブ」を結成。「植木等とニュー・サウンズ・トリオ」での活動を経て、1956年(昭和31年)、「ハナ肇とクレージーキャッツ」にピアニストとして参加。ジャズメン仲間だった渡辺晋が設立した渡辺プロダクションに入社し、ジャズメンからテレビタレントへと転身した。1959年(昭和34年)フジテレビのコント番組『おとなの漫画』で注目を集め、音楽とギャグが同居したナンセンスな笑いで一世を風靡した。しかし、石橋は当初演奏だけしていればいいと思っていた為、初日から洗面器を投げつけられたり女形をやらされたりしたため、たびたび自殺を考えるようになる。1960年(昭和35年)、結核を患い、肋骨を6本整形する手術を受ける。この結核の手術を機に父・蘭童と和解。1年余の入院生活を経て、1961年(昭和36年)8月には復帰。以降は彼の代役としてメンバーに加わっていた桜井センリと共にピアノを演奏することとなる。同年、日本テレビでスタートした『シャボン玉ホリデー』にクレージーキャッツのメンバーとしてレギュラー出演。植木等の「お呼びでない、こりゃまた失礼致しました」や、谷啓の「ガチョーン」といったギャグが流行する中、石橋は飄々としたキャラクターで独特のキャラを確立していった。1970年(昭和45年)、心臓病が原因でクレージーキャッツを脱退。「クレージーをやめて、また芸能界の仕事をすれば、なにか不満があったのだろうと言われますから。それだけはいやだった」との理由から芸能界を引退し、料理研究家に転身。同時に「自分で釣った魚で一杯やりたい」という思いから、東京の渋谷で酒と肴の店「三漁洞」の経営もスタートさせた。1972年(昭和47年)、日本テレビ系『あなたのワイドショー』の司会に抜擢。以降は限られた範囲で芸能活動を行い、山一證券やリンナイのCMなどに出演した。また、脱退後もクレージーキャッツのメンバーとは良好な関係を続け、テレビの特番等でクレージーキャッツのメンバーが一堂に会する際には手料理を届けるなどをしていた。1988年(昭和63年)にはメンバーが総出演した映画『会社物語 MEMORIES OF YOU』の撮影にも参加。これがメンバー全員出演した最後の作品となった。1994年(平成6年)6月22日、胃癌による心不全のため、東京都品川区の昭和大学病院で死去。享年67。


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黒縁眼鏡に飄々としたキャラでクレージーキャッツの黄金期を支えた石橋エータロー。「笛吹童子」で知られる作曲家・福田蘭童を父に持ち、自身も声楽・クラシック・ジャズを網羅した一流の音楽プレーヤーであった。その実力は、1965年(昭和40年)に発売された『悲しきわがこころ』の3番(石橋パート)や、桜井センリとのピアノ連打演奏で遺憾なく発揮されている。それだけに、半ば強制的にコメディー路線へ転換させられたことは大きな戸惑いであったと思う。同じように悩んでいた安田伸は、苦悩の末に「ミヨコー!!」のギャグを生み出したが、石橋は飄々としたおとぼけキャラを確立したものの、どこか迷いが吹っ切れていないように見えた。晩年は料理研究家に転身した為にテレビへ出ることがほとんどなく、初老を迎えたエータローの姿が見れなかったのは実に残念である。石橋エータローの墓は、東京都世田谷区の九品仏浄真寺にある。五輪塔型の墓の左側に墓誌が建ち、入口には釈迦三尊が彫られたおにぎり型の石碑とエータローの趣味であった釣りにあやかってか鯛のモニュメントが設置されている。戒名は「天楽院英譽卓道居士」


by oku-taka | 2018-01-27 18:29 | コメディアン | Comments(0)