2018年 01月 02日
七代目・立川談志(1936~2011)
7代目・立川談志(たてかわ だんし)
落語家
1936年(昭和11年)~2011年(平成23年)
1936年(昭和11年)、東京府東京市小石川区原町(現在の東京都文京区白山)に生まれる。本名は、松岡 克由(まつおか かつよし)。父が三菱重工の社用車の運転手だったことから、幼少期は白山御殿町、蒲田、浦賀、下丸子と家を転々とする。1942年(昭和17年)、大田区鵜の木に移住。小学校に入学すると貸本屋通いをするようになり、当時流行だった『少年倶楽部』や江戸川乱歩の『少年探偵団』など本の虜となる。戦後は伯父に連れられ行った「寄席」に夢中となり、遊びで勝利して手に入れたベーゴマを売ったり、近所で拾った銅や鉛を売ったりして得た資金で新宿の末広亭に通い詰める。また、「評判講談全集」や「落語全集」などを読み込み、学校の授業中でも「落語全集」を教科書代わりにして読み耽った。1952年(昭和27年)、東京中学校を卒業。東都高等学校に進学するもすぐに中退し、5代目柳家小さんに入門。本名の「克由」の一字を取って「柳家小よし」と名乗り、新宿末廣亭における『浮世根問』が初高座となる。1954年(昭和29年)、二つ目に昇進し「柳家小ゑん」に改名。古典落語の口演で注目されるようになり、湯浅喜久治が主催する「若手落語会」に抜擢。一方で日劇ミュージックホールや新宿松竹文化演芸場にも定期的に出演し、コントや漫談も披露するなど芸域の広さを見せつけた。しかし、1962年(昭和37年)に入門が5年遅い古今亭朝太(後の3代目古今亭志ん朝)が「36人抜き」で小ゑんよりも先に真打に昇進。真打昇進を辞退するよう朝太本人に直談判するほど、小ゑんにとって生涯最大の屈辱を味わう。1963年(昭和38年)、7代目となる立川談志を襲名し、真打に昇進。しかし、立川談志という名ついて自身は、明治時代の寄席で人気を博していた4代目が初代を称しており、小ゑんの先代にあたる6代目がそれに倣って4代目と称していたこと、5代目というのは語呂が良いこと、師匠である5代目柳家小さんと代数が合うので丁度いいということから、5代目を名乗ることにした。襲名後は、下火になりつつあった落語人気を復活させるべく、古典落語を現代的価値観と感性で表現し直すことに力を注ぎ、噺のマクラに当時の世相を織り込むなどの改革を実践。また、NHKの児童向け番組『まんが学校』の司会や映画出演、『現代落語論』の執筆など落語にとどまらない活動を展開。5代目三遊亭圓楽、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝と共に「江戸落語若手四天王」と呼ばれ人気を博した。1966年(昭和41年)には自ら企画した演芸番組『笑点』が放送を開始し、司会者を務めた。笑点の司会では、持ち前のブラックユーモアを生かした機知に富んだ掛け合いを演じたものの、視聴率が伸び悩み、初代レギュラー陣との関係も悪化したため、1969年(昭和44年)11月2日の放送を以って降板を余儀なくされた。同年、ニッポン放送にて月の家圓鏡(後の8代目橘家圓蔵)と木魚を叩きながらナンセンスなやりとりをするラジオ番組『談志・円鏡 歌謡合戦』がスタート。これが人気番組となり、約4年間にわたって放送された。一方、前年に青島幸男や石原慎太郎の出馬で話題となったタレント選挙に刺激を受け、第32回衆議院議員総選挙に東京8区から無所属で出馬。しかし、19,548票で立候補者9人中6位で落選した。1971年(昭和46年)、今度は第9回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬。当時の全国区で50人中50位の最下位当選だったが、その際のインタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」という言葉を残す。直後に自由民主党に入党し、国会質疑ではNHK受信料問題などを取り上げた。1975年(昭和50年)12月26日、三木内閣の沖縄開発政務次官に就任。しかし、就任時の会見で議員の選挙資金について「子供の面倒を親分が見るのは当然」と発言したことが問題化。さらに、政務次官初仕事である沖縄海洋博視察では二日酔いのまま記者会見に臨み、地元沖縄メディアの記者から「あなたは公務と酒とどちらが大切なんだ」と咎められ、「酒に決まってんだろ」と返したことがさらに問題となる。さらに詰問する記者に対して退席を命じ、会見を打ち切ろうとしたため批判を浴びた。弁明を行うはずの参議院決算委員会を寄席への出演を理由に欠席するに至って、自民党内部からも反発が起こり辞任。在任期間は僅か36日であった。談志自身は、議員になったのは兼職をしてもいいと言われたからであり、自分は大衆との接点を持ち続けるのが信条だとして、自民党も離党した。その後、参議院議員2期目を目指し、全国区から東京地方区への鞍替え出馬を予定していたが、直前で出馬を取りやめ、議員活動は参議院議員1期6年だけで終わった。1978年(昭和53年)、6代目三遊亭圓生ら三遊派が落語協会を脱退し、落語協会分裂騒動が起こる。談志はかねてから第3の団体を設立し、落語協会・落語芸術協会と新団体で1カ月のうち10日ずつ寄席を担当するというプランを持っており、圓生の脱退を絶好の機会だと考えていたが、脱退した三遊派で構成される「三遊協会」の次期会長が自身ではなく志ん朝であると圓生に言われ、思惑が外れたことから新団体設立の発表直前になって急遽参加を取り止めた。しかし、1983年(昭和58年)に行われた落語協会真打昇進試験において、受験者10名のうち談志門下の立川談四楼、立川小談志(後の喜久亭寿楽)が不合格とされたことで、合否基準に異議を唱えた。これが発端となって制度の運用をめぐり当時落語協会会長であった師匠の小さんと対立。談志は落語協会を脱会し、自らを家元とする落語立川流を立ち上げ、真打・二つ目の昇進に厳格な試験制度と基準を設けるという自らの持論を実践に移した。以降、常設の寄席に出演できなくなったもののホールでの落語会を続け、志の輔、談春、志らくなどの人気落語家を育てた。また、自らの落語論をさらに追求し、1985年(昭和60年)に発表した『あなたも落語家になれる 現代落語論其2』では「落語とは人間の業の肯定」「イリュージョンこそが人間の業の肯定の最たるもので,そこを描くことが落語」といった独自の理論を打ち立てた。1997年(平成9年)、咽頭癌の手術を受ける。術後、医者から止められていたにもかかわらず、記者会見では堂々とタバコを吸って話題をさらったが、翌年には食道癌を発症し外科手術により摘出。以降の人生を癌との戦いに費やすことになる。1999年(平成11年)、長野県飯田市での高座にて、落語を上演中に居眠りしていた客一人を注意して退場を勧告。後日、その客がその高座の主催者を相手取り「落語を聴く権利を侵害された」として民事訴訟を起こすも、請求は棄却された。2008年(平成20年)5月、喉にポリープの疑いがあると診断され、検査を受ける。6月3日、自宅からほど近い日本医科大学付属病院に一泊二日の検査入院したが、「20日間は入院が必要」と医師に言われ、6月18日に退院。これ以降、高座以外でも発声が極端に苦しくなり、力がなくしわがれた聞き取りづらい声に変わっていった。10月14日、喉頭癌を発病したことを『サライ』大賞授与式で告白。癌の発病箇所は声門であり、声帯摘出以外に完治の見込みはなかった。2009年(平成21年)8月26日、長期休養を発表。予定されていた出演をすべてキャンセルとする。理由は体力の低下と持病の糖尿病治療であると発表された。当初、本人は事務所に引退を切り出したというが、事務所の説得で休養という形に落ち着いた。その後も体調は好転せず、2010年(平成22年)冒頭に入院することが決定したことなどを受け、休養期間を約3か月延長すると発表。2010年3月2日、6代目三遊亭円楽襲名披露パーティーに姿を見せ、挨拶する。4月13日には8か月ぶりに高座へ復帰を果たし『首提灯』を披露するも、11月に声門癌が再発。この時は声帯摘出手術を本人が拒否した。2011年(平成23年)3月6日、川崎市・麻生市民館麻生文化センターでの「立川談志一門会」にて、咳き込みながら『長屋の花見』『蜘蛛駕籠』を披露。これが談志にとって生涯最後の高座となった。3月21日、入院。ストレス性胃潰瘍と公表していたが、実際には声門癌の進行による呼吸困難症状が発生し、気管切開手術(声帯にメスを入れる)で一命を取り留めたものの、この手術によってほとんど声が出せない状態となっていた。10月27日、昏睡状態に陥る。この日を最後に意識が回復することはなく、11月21日午後2時24分、家族に看取られて喉頭癌のため死去。享年76。
「落語界の風雲児」と呼ばれ、戦後の落語界を自由奔放に駆け回った伝説の男・立川談志。落語の凋落を恐れ、生き残りをかけ独自の理論で落語界の既成概念を悉く壊していった。それだけに談志の落語は漫談に近く、決して正統派の落語ではなかった。彼の面白さは落語ではなく、毒舌とユーモアさを巧みに織り交ぜた時事評論と芸談にあるのではないか。得意演目といわれている『芝浜』よりも『やかん』のほうが談志らしさが出ていて圧倒的に面白い。そう考えると、やはり談志は落語家というよりは漫談家としての才能のほうがあったように思える。破天荒な行動と言動で反逆児と言われながらも、現代落語に革命を起こし続けた立川談志の墓は、東京都文京区の浄心寺本郷さくら霊園にある。墓には「立川談志」とあり、左横に墓誌が刻む。納骨室には自画像と直筆の「さァて人生ねぇ…」が彫られている。戒名は「立川雲黒斎家元勝手居士」。生前より「葬儀もいらない、お経もいらない」と語っていた談志が名付けたこの戒名のせいで、受け入れてくれるお寺がなかなか見つからず、納骨が1年もかかってしまったという。死してなお周囲の人を困らせるとは、何とも談志らしい話である。