2018年 01月 02日
森敦(1912~1989)
森 敦(もり あつし)
作家
1912年(明治45年)~1989年(平成元年)
1912年(明治45年)、長崎県長崎市銀屋町に生まれる。1917年(大正6年)に朝鮮・京城府(現在のソウル)に渡り、京城府公立鍾路尋常小学校を経て京城中学校に学ぶ。在学中は柔道に熱中し、弁論を得意としていたことから政治家を志すが、古今東西の思想書や文学全集を耽読して文学に目覚め、校友会誌に詩や小説を発表するようになる。1930年(昭和5年)、京城公立中学校を卒業。旧制第一高等学校の受験に失敗した後、京城日報社での文芸講演会に赴き、講師だった菊池寛と横光利一らと出会う。これを機に文学へ本格的に傾斜する。1931年(昭和6年)、上京し、旧制第一高等学校文科甲類に入学(翌年には退学)。この頃、横光利一に師事し、その推薦により1934年(昭和9年)に東京日日新聞・大阪毎日新聞で『酩酊舟〔よいどれぶね〕』を連載。同年、太宰治、檀一雄、中原中也、中村地平らと文芸同人誌『青い花』の創刊に参加したが、作品の発表には至らなかった。1936年(昭和11年)、奈良・東大寺の瑜伽山の山荘に移住。叔母から家購入のために貰った資金を使い、山荘を拠点にして捕鯨船などの漁船に乗ったり、樺太に渡って北方民族と生活したりする。翌年には北川冬彦と鎌原正巳の勧めで小説や評論を書くようになり、1939年(昭和14年)羽生明太郎の筆名で『朝鮮人参奇譚』を「シナリオ研究」に発表。同年、婚約者の前田暘とその母が滞していた山形県酒田市を訪ね、吹浦の夕焼け、月山、鳥海山を知り深い感銘を受ける。1940年(昭和15年)、東京府東京市大森区(現在の大田区)入新井に移り住み、富岡光学機械製造所雪ヶ谷本社に入社。1941年(昭和16年)、横光利一夫妻の媒酌で前田暘と結婚。1945年(昭和20年)、終戦に伴い富岡光学機械製造所が解散。富岡光学の同僚と岡山県の寄島で塩田の仕事をした後、東京で業界紙の仕事に就き、GHQのコンファレンスに出て地方紙に記事を売ったりして暮らす。その後、新聞「文化時事」を出すが失敗。1949年(昭和24年)頃から執筆活動と並行して一人で各地を放浪するようになり、酒田市、弥彦村、吹浦村などを転々とする。1951年(昭和26年)、山形県東田川郡東村(現在の鶴岡市)の注連寺を訪ね、翌年の初夏まで滞在。一時的に帰京するが、再び庄内地方を一人で転々とする。1957年(昭和32年)、電源開発株式会社に入社し、北山川建設所の尾鷲連絡詰所に勤務。奈良県吉野郡下北山村下池原に滞在したが、1960年(昭和35年)に退職し、新潟県西蒲原郡弥彦村字弥彦大石原に転居。1965年(昭和40年)、東京に戻り、千代田出版印刷(後の近代印刷)に入社。以降は東京都内に居を構える。印刷会社に勤務の傍ら、檀一雄編集の季刊文芸誌『ポリタイア』に「天上の眺め」その他6作品を発表。1973年(昭和48年)、山形県の注連寺に滞在していた体験を基に執筆した『月山』を「季刊芸術」第26号に発表。翌年、同作で第70回芥川賞を受賞。62歳での受賞は39年にわたって最高齢受賞記録であった。その後、『鳥海山』、『意味の変容』など話題作を次々に発表。また、NHKテレピ「ビッグショー」の対談コーナーにレギュラー出演したのを皮きりに、文化放送の人生相談を担当するなど、多くのテレビやラジオに出演する。1987年(昭和62年)、『われ逝くもののごとく』で第40回野間文芸賞を受賞。1989年(平成元年)7月29日、新宿区市谷の自宅で意識を失い、東京女子医科大学病院へ搬送されたが、午後5時43分に腹部大動脈瘤破裂のため死去。享年78。
若くしてデビューした後、40年近く全国を放浪して再び文壇に戻ってきた異色の作家・森敦。62歳で芥川賞を受賞したことから一躍時の人となり、その飄々とした風貌と達観したような独特の語り口がさらにウケたようで、一時期は盛んにメディアへ顔を出していた。特にNHKは彼をいたく気に入ったようで、亡くなる直前まで森敦を特集した番組を多く制作していた。10年働いては10年自由に暮らすという生活を繰り返し、独特の文学性を生み出した森敦の墓は、東京都新宿区の光照寺にある。墓には「森家之墓」とあり、左側面に墓誌が刻まれている。右横には、森敦が最期の言葉として残したとされる「われ浮雲の如く放浪すれど こころざし常に望洋にあり」を刻んだ碑が建立されている。戒名は「雲月院敦與正覺文哲居士」