2017年 12月 26日
岡晴夫(1916~1970)
岡 晴夫(おか はるお)
歌手
1916年(大正5年)~1970年(昭和45年)
1916年(大正5年)、千葉県木更津市に生まれる。本名は、佐々木 辰夫(ささき たつお)。幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。小学校時代は唱歌の授業が嫌いで成績はいつも「丙」だったが、6年生の時に音楽の先生から人前で歌を歌うことを勧められて歌を歌うことに興味を持ったという。16歳の時に上京し、万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通う。翌年には上野にあった松坂屋に転職し、その傍らで引き続き声楽を習う。この頃、昼休みに屋上に出たところ見渡す限りの青い空が目に入り、自然と藤山一郎の『丘を越えて』を口ずさみ、「歌手になったら、青く明るい空で『岡晴夫』にしよう」と芸名を決めている。1934年(昭和9年)、知人の紹介で作曲家を目指していた上原げんとと出会う。その後、松坂屋を退職。演歌師として浅草や上野界隈の酒場などで流しをしながら、昼間は音楽の勉強に勤しむ。1938年(昭和13年)、銀座のキャバレー「クラウン」で出会った東海林太郎に勧められ、キングレコードのオーディションを受け合格。上原と共にキングレコードの専属となる。翌年、「国境の春」で歌手デビュー。その後、「上海の花売娘」「港シャンソン」などのヒットを飛ばし、一躍スターとなる。しかし、太平洋戦争末期に軍属としてアンボン島(現在のインドネシア領)に配属され、現地の風土病にかかり帰国を余儀なくされる。療養生活を経て、1946年(昭和21年)に活動を再開。第1弾シングル「東京の花売娘」が大ヒット。リーゼントスタイルの髪型と明るくビブラートのかかった歌声は、平和の到来や開放感に充ちた時代とマッチし、その後も「青春のパラダイス」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」と相次いで大ヒットをとばす。さらには、昭和20年代を代表するスター歌手として、近江俊郎・田端義夫とともに「戦後三羽烏」と呼ばれ、岡は「オカッパル」の愛称で親しまれた。一方、楽団ニュースターを結成し、東京の浅草国際劇場や大阪大劇で初めてのワンマンショーを開催。地方巡業も各所大入り満員を記録し、昼夜2度の公演にファンが会場へ入りきれず「夜の部」終了後に急遽「第3回公演」を行ったり、紅白歌合戦より地方巡業のスケジュールを優先したりするなど、各地に赴いてのステージ活動にこだわり続けた。しかし、人気に伴う多忙さと、当時芸能界で蔓延していたヒロポンにも手を出すようになり、体調を崩しがちになる。また、盟友の上原げんとがコロムビアに移籍し、さらに新しい歌手が台頭するなど、人気に陰りがみえ始める。1954年(昭和29年)、デビュー以来専属だったキングレコードを辞めてフリー宣言。日本マーキュリーと本数契約を結ぶも、ヒット曲には恵まれなかった。1955年(昭和30年)、低迷に喘ぐ岡を見かねた上原げんとが口利きをし、コロムビアの専属となる。上原の作曲による「逢いたかったぜ」で再出発を果たし、同曲は大ヒットとなった。見事復活を果たした岡だが、間もなく過労のため再び病床に伏し、約3年の休業を余儀なくされる。1962年(昭和37年)には再度キングレコードの専属となるが、体調は糖尿病から白内障を併発するなど悪化していった。1965年(昭和40年)、上原げんとが心筋梗塞のため急逝。岡は失明寸前の身でありながら葬儀に参列し、号泣しながら「逢いたかったぜ」を歌った。1968年(昭和43年)、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)で歌番組『なつかしの歌声』が放送を開始し、それによって懐メロブームが到来。岡も同番組へ頻繁に出演し、往年のヒット曲を披露した。長年の闘病生活で、身体は痩せ往時の美声も失われるなど悲壮な姿だったが、ファンの声援を支えに歌い続けた。晩年も自身のヒット曲をステレオ録音でセルフカヴァーをするなど精力的に活動していたが、1970年(昭和45年)4月に大阪府守口市で行われた読売テレビ『帰ってきた歌謡曲』の公開収録直前に倒れ入院。糖尿病の悪化と末期の肝臓癌と診断された。同年5月19日午後3時36分、肝臓障害のため東京都千代田区富士見の東京警察病院で死去。享年55。
鼻にかかった甘い歌声で荒廃した戦後に明るい空気をもたらしたオカッパルこと岡晴夫。その独特な歌声と上原げんとの軽快なメロディーが合わさり、1940年代の歌謡界において一時代を築いた。没して47年になるが、今なお懐メロファンからは東海林太郎と並んで根強い人気を持ち、芸能界でも立川談志や菅原文太がオカッパルのファンであることを公言し、坂上二郎は生前「憧れのハワイ航路」を十八番として度々テレビで披露していた。ここにきて彼の生涯を取り上げた特集番組が多く放送され、再び陽が射しはじめている。しかし、彼の活躍ぶりが残されているのは出演した数少ない映画と晩年の歌番組のみ。私のように後の昭和歌謡を特集した番組で岡晴夫を知った者からすれば、テレビに出ていたあの映像こそが岡晴夫なのだが、古くから知るファンからすれば、全盛期からは想像もつかないほどにやせ衰えた別人のような岡晴夫を見るのは辛いという。もう少し健康で、せめてあと10年生きていてくれたらば、今以上に評価されていたのかもしれない。多くの人に愛され、歌われ続けている岡晴夫の墓は、東京都江東区の本立院墓所にある。岡の墓は入口近くに建立されているが、狭い立地に墓石が密集した墓所の一番端に岡の墓がある為、探すのに一苦労した。墓には岡の戒名「天晴院法唱日詠居士」が妻の戒名と共に彫られてあり、右横に「岡晴夫夫妻、ここに安住す」とある。