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飯沢匡(1909~1994)

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飯沢 匡(いいざわ ただす)

劇作家
1909年(明治42年)~1994年(平成6年)


1909年(明治42年)、和歌山県和歌山市で生まれる。本名は、伊澤 紀(いざわ ただす)。父は警視総監・貴族院議員・台湾総督を歴任した官僚政治家・伊澤多喜男であり、その影響で幼少期は愛媛県松山市を経て東京小石川原町や巣鴨と各地を転々として育つ。1922年(大正11年)、武蔵高等学校 (旧制)尋常科に第1期生として入学。しかし、算術が苦手で落第を経験。1925年(大正14年)、尋常科3年のときに発病し、1年間サナトリウムに入院する。1928年(昭和3年)、学校嫌いのため、高等科1年で武蔵高等学校を退学。同年、文化学院美術科に入学した。在学中から長岡輝子・森雅之・金杉惇郎らのテアトル・コメディに参加し、1932年(昭和7年)には『藤原閣下の燕尾服』で劇作家デビューを果たす。同年、文化学院美術科を卒業し、専修科(美術)に進む。1933年(昭和8年)、東京朝日新聞社(現在の朝日新聞東京本社)に入社。仙台支局から東京本社学芸部、整理部と異動する傍ら、“飯沢匡”の筆名で『北京の幽霊』(1943年)、『鳥獣合戦』(1944年)などの時局風刺劇を次々に発表。この筆名は、上司に隠れてNHKラジオのために台本を書いた際、アルバイトが露見しないようNHKの担当者に「印刷しては別人に見え、アナウンサーが発音すると本名のように聞こえるという名を考えてください」と頼んだところ勝手に命名されたものである。1943年(昭和18年)、『再会』でNHKラジオ賞を受賞。1945年(昭和20年)、「アサヒグラフ」の副編集長に就任。写真・文字・漫画等を使った当時の世相風刺という新しい雑誌のスタイルを確立。1948年(昭和23年)、「婦人朝日」の編集長に就任。同雑誌では「私の作文」というコーナーをつくり、文章の書き方についての啓蒙活動を展開した。一方、劇作家としては1950年(昭和25年)に発表した『崑崙山の人々』が評判を呼び、喜劇作家としての地位を確立。1954年(昭和29年)、文学座初演の『二号』で第一回岸田演劇賞、『ヘンゼルとグレーテル』でサンケイ児童出版文化賞を受賞した。一方、日本のラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供の声を演じた児童番組『ヤン坊ニン坊トン坊』の脚本を担当。放送が3年にもわたる人気作となり、同作で輩出した黒柳徹子を一躍スターへと押し上げた。1957年(昭和32年)、NHK放送文化賞を受賞。その後も、『ブーフーウー』(1960年-1967年)、『ダットくん』(1967年-1969年)、『とんちんこぼうず』(1969年-1971年)といった多くの児童番組を手がける。また、作家としても活動をし、1968年(昭和43年)には『五人のモヨノ』で読売文学賞を受賞。『腸詰奇談』『リッタイ時代』で第29回直木賞、『青春手帖』で第32回直木賞の候補作に選ばれた。1969年(昭和44年)、『みんなのカーリ』で斎田喬戯曲賞を受賞。1970年(昭和45年)、『もう一人のヒト』で小野宮吉戯曲平和賞を受賞。1973年(昭和48年)、紀伊国屋演劇賞を受賞。1979年(昭和54年)、『夜の笑い』の脚本・演出で毎日芸術賞を受賞。1983年(昭和58年)、日本芸術院会員に選ばれた。1989年(平成元年)、舞台「海外コメディーシリーズ」をスタート。以来、主演・黒柳徹子、脚本・飯沢匡のコンビで一年に一作のペースで上演した。 1994年(平成6年)10月9日、死去。享年86。


飯沢匡(1909~1994)_f0368298_19122242.jpg

時事性と反骨精神に富んだ作品を世に送り出し続けた飯沢匡。テレビ黎明期に児童向けの番組を手がけ、当時の子供たちに夢と希望を与えた。そして、「あなたはそのままがいいんです。決して個性を隠してはいけません」として黒柳徹子の才能を見抜き、日本を代表するタレントに育て上げた。個性の強い徹子を受け止め『ヤン坊ニン坊トン坊』に抜擢し、書く仕事を斡旋してエッセイストとして活躍させるきっかけを与え、晩年に「君は外国の面白い女をやるといいんじゃないか」といって喜劇への強い想いを与えるなど、死してなお徹子の精神的支柱であり続けている。飯沢匡の墓は、東京都豊島区の雑司が谷霊園にある。墓には「伊澤多喜男之墓」、左横に二段造りの「伊澤家」「飯沢匡之墓」とある。右横には墓誌が建つ。近年お参りする人がいないのだろうか、墓は熊笹に覆われ荒地になりつつあった。

by oku-taka | 2017-12-23 21:19 | 文学者 | Comments(0)