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三波春夫(1923~2001)

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三波 春夫(みなみ はるお)

歌手
1923年(大正12年)~2001年(平成13年)


1923年(大正12年)、新潟県三島郡越路町(現在の長岡市塚野山)に生まれる。本名は、北詰 文司(きたづめ ぶんじ)。1930年(昭和5年)、母が腸チフスで死去。妻を亡くした父親は家庭内を明るくしようと、夜になると子どもを仏壇の前に正座させ、江差追分などの民謡を教えた。兄弟揃って一生懸命に歌ったが、父親の歌う民謡がひどく悲しいものに感じたという。1932年(昭和7年)、父が再婚。継母との関係は非常に良く、自分の連れ子と分け隔てなく可愛がってくれたという。しかし、1936年(昭和11年)に営んでいた本屋・印刷・書籍・文具商が傾き、家族で夜逃げ同然で上京。米屋、製麺工場に住み込みで働き始める。この頃から浪曲師への志望が高まり、寿々木米若に入門願いを出すも、米若からは芸界の苦労や厳しさが書かれた丁寧な断り状が届いた。1938年(昭和13年)、築地魚市場内で仲買人をしていた伯父の店「川悦」に就職。市場内でも仕事が終わると魚を入れる木箱を重ねて浪曲を披露していた。1939年(昭和14年)、伯父が病に倒れ死去。「川悦」の経営に奔走するが、立ち行かなくなり倒産。その後、たまたま八丁堀の住吉亭で行われていた「浪曲学校卒業生大会」という看板を見かけ、聴きに行ったことをきっかけに、文京区本郷の「日本浪曲学校」へ入学した。同年10月、「南篠文若」の名で東京・六本木の寄席「新歌舞伎座」で初舞台を踏む。初舞台翌日には二つ目に昇進し、3ヶ月後には若手にとっては最高の出演順であるモタレ(最後の出演者の1つ前)になるなどスピード出世を果たす。以後、少年浪曲家として活躍し、1年8か月後には一枚看板での15日間巡業を行った。1944年(昭和19年)、応召され帝国陸軍に入営。軍隊でもその腕を生かし、入営半年も経たない内に各中隊別に口演を行い、「浪曲上等兵」と渾名された。1945年(昭和20年)、満州国に渡り、侵攻してきたソビエト連邦(ソ連)軍と交戦。敗戦を同地で迎え、ソ連軍の捕虜としてハバロフスクの捕虜収容所に送られる。収容所内でも浪曲を披露していたが、ソ連側による徹底した思想教育の中で演目にも検閲が入るようになり、オリジナルの「思想浪曲」や芝居を創作しソ連各地の収容所で披露するなど、捕虜教育係のような役割を負っていた。そうした事実を受け、帰国直後は「共産主義に洗脳されていた」と述べている。また、当時のソ連の捕虜の扱いについては「国際法を無視し、捕虜の人権を蹂躙した国家的犯罪。更にソ連は謝罪も賠償も全くしていない」と非難。こうした自身の戦争体験・抑留体験もあり、後に「天皇陛下御在位60年大奉祝祭」に奉祝委員としてテープカットに参加したり、日本を守る国民会議(現・日本会議)の代表委員となるなど、右翼系政治活動に参加するようになった。1949年(昭和24年)9月、約4年間のシベリア抑留生活を経て帰国。浪曲師として復帰するも、戦後の社会の急速な変化の中で流行歌から演歌大衆歌謡が流行り始めていたことから、浪曲は次第に衰退し始めるであろうと予感し始める。また、ある舞台で客席の老婆から「浪花節はちょっとでいいから、歌をいっぱいやってくれ」とのリクエストを受けたことから、歌の持つ大きな力と大衆が歌を求めていることを感じるようになる。1955年(昭和30年)、民謡歌手から歌謡界にデビューした三橋美智也の『おんな船頭唄』が大ヒット。「民謡調の歌謡曲がヒットするのなら、浪曲調歌謡曲の世界があってもいいのではないか」との思いに至り、1957年(昭和32年)6月、芸名を「三波春夫」と改めて歌謡界へデビュー。6月に第2弾として出した『チャンチキおけさ/船方さんよ』が大ヒットし、一躍脚光を浴びる。同年末には東京・浅草国際劇場でワンマンショーを開催し、派手な着物姿で歌ったことで「和服姿の男性歌謡歌手」の嚆矢となっていった。その後も『雪の渡り鳥』、台詞入りの『大利根無情』、『一本刀土俵入り』と大ヒットを連発し、人気歌手の仲間入りを果たす。1958年(昭和33年)には第9回NHK紅白歌合戦に初出場した。1960年(昭和35年)、歌手としては初の1か月公演を大阪新歌舞伎座で開催。芝居と歌謡ショーの昼夜2回公演を日28日間、休日なしで行う。1961年(昭和36年)には東京・歌舞伎座公演での1か月公演を開催。以来、1月は名古屋・御園座、3月は大阪・新歌舞伎座、8月は東京・歌舞伎座での『三波春夫特別公演』を20年連続で定例公演とし、定着させた。この頃、自身のステージ上で司会を務めていた宮尾たか志が「三波さんは、お客様をどう思いますか?」と問いかけ、三波は「うーむ、お客様は神様だと思いますね」と応えたところ、宮尾が客をいろいろな神仏になぞらえ「なるほど、そう言われれば、お米を作る神様もいらっしゃる。ナスやキュウリを作る神様も、織物を作る織姫様も、あそこには子供を抱いてる慈母観音様、なかにゃうるさい山の神……」と語り、これ以降「お客様は神様です」が代名詞として全国各地で披露された。1963年(昭和38年)、東京オリンピックを翌年に控え、テーマソング『東京五輪音頭』がレコード会社8社競作のもとで発表される。三橋美智也(キング)、橋幸夫(ビクター)、北島三郎&畠山みどり(コロムビア)、坂本九(東芝)らが歌っているが、中でもテイチクの三波盤が250万枚を売り上げる大ヒットを記録した。1964年(昭和39年)、北村桃児(きたむら・とうじ)のペンネームで自ら作詞・構成した長編歌謡浪曲『元禄名槍譜 俵星玄蕃』を発表。浪曲師時代の経験を活かし、歌と浪曲を融合させ、浪曲特有の啖呵(台詞)や節回しも取り入れながら、長時間の浪曲をコンパクトに楽しんでもらおうと創作した「長編歌謡浪曲」は三波歌謡の象徴となり、これ以降、「豪商一代 紀伊國屋文左衛門」『元禄忠臣蔵より「あゝ松の廊下」』など数々の日本史上の人物や出来事を題材にした作品を発表した。1967年(昭和42年)、大阪で開催が決まった日本万国博覧会(大阪万博)のテーマソング「世界の国からこんにちは」が8社競作で発表される。)、坂本九(東芝音楽工業)、吉永小百合(日本ビクター)、山本リンダ(ミノルフォン)、ボニージャックス(キングレコード)らが歌ったが、この曲でもテイチクの三波盤が130万枚を売り上げる大ヒットとなった。1970年(昭和45年)の万博開催後にはリベリアで発行された日本万国博覧会開催記念切手に登場し、日本の芸能人として初めて海外の切手に登場した。1975年(昭和50年)、三波春夫の名義で『おまんた囃子』の作詞・作曲を手掛け、50万枚を売り上げる久々のヒットとなった。1986年(昭和61年)、紫綬褒章を受章。同年12月、第37回NHK紅白歌合戦に白組歌手として当時最多記録となる29年連続の出場を果たすが、翌年の第38回NHK紅白歌合戦は「後進に道を譲りたい」として辞退することを発表した。1992年(平成5年)、過去のヒット曲にハウスサウンドやラップ、レゲエを導入してリメイクしたアルバム『オマンタせしました! HARUO IN DANCE BEAT』を発売。11月21日に発売したシングル「ジャン・ナイト・じゃん/ Ika-Never」ではラップに挑戦し、ジャンルに囚われない精力的な音楽活動を展開。その柔軟な姿勢は若年層にも受け入れられ、ライブでは若い観客が三波の歌声に狂喜乱舞した。1994年(平成7年)、体調を崩して訪れた東京都内の病院で前立腺癌と診断される。発見された時点で既に早期ではなく、当時マネージャーだった娘・美夕紀が、父・三波に病名を告げた。三波は動揺することもなく穏やかに「仕事をしながら病気と闘っていきましょう」と家族に語った。また、「完ぺきな形で歌を歌っていきたい」との強い思いから手術はせずに投薬治療を選択。家族以外には一切病名を隠し通し、抗がん剤や放射線治療の影響で頭髪が薄くなると、植毛を施して病を感じさせない変わらぬ容姿で歌手活動を継続した。8月、東京・歌舞伎座にて『芸道55周年記念リサイタル』を開催。一方で、長編歌謡浪曲の集大成として制作していた2時間25分の組曲アルバム『平家物語』を構想10年執筆6年という歳月をかけた上で完成させ、第36回日本レコード大賞企画賞を受賞した。同年、勲四等旭日小綬章を受章。1999年(平成11年)、第50回NHK紅白歌合戦へ10年ぶり31回目の出場を果たし「俵星玄蕃」を披露。この頃、既に病の進行による体力低下が顕著な状況で、自身の出番以外は殆ど楽屋で横になっていた。2000年(平成12年)、故郷の三島郡越路町の町制45周年記念イベントのステージに出演。既に歩行にも支障をきたしており、舞台へは杖を片手に立ったこのステージが、生前最後の舞台となった。12月上旬に東京都内の病院に入院。2001年(平成13年)2月、三波は病床で「ふるさとを見せてやろうと窓の雪」との句を詠んだ。それを聞いた美夕紀が「辞世の句かしら」と問いかけると、三波は「そうかもな」と少し元気なく答え、続けて「逝く空に 桜の花が あれば佳し」と詠んだ。奇しくも同年の4月14日、前立腺癌のため東京都内の病院で死去。享年78。死去の3日程前から眠っている状態だったが、息を引き取る2時間前に目を開き、妻に語りかけた「本当にたくさんの歌を一緒に作ったね。ママ、ありがとう。幸せだった…」が最期の言葉だった。


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「お客様は神様でございます」のフレーズで国民的歌手と称された三波春夫。東京オリンピックと大阪万博という戦後日本の象徴ともいえる二つの国際的祭典のテーマソングで大衆の支持を得つつ、『大利根無情』や『俵星玄蕃』といった台詞入りの歌謡浪曲という独自のジャンルを築くなど、歌謡界に大きな足跡を残した。かと思えば、おちゃらけたルパン三世の映画主題歌を歌ったり、ラップやハウスミュージックに挑戦したりと、その仕事を選ばない姿勢には何度も脱帽させられた。華やかな和服の着流しスタイル、特徴ある笑顔、明るく張りのある美声の三拍子そろった三波春夫という歌手は、もしかするとエンターティナーというものを最も意識していた最初の歌手だったのかもしれない。老若男女から愛された究極のエンターティナー・三波春夫の墓は、東京都杉並区の妙法寺にある。墓には「北詰家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「大乗院法音謡導日春居士」

by oku-taka | 2017-12-02 12:47 | 音楽家 | Comments(0)