2017年 11月 18日
横澤 彪(1937~2011)
横澤 彪(よこざわ たけし)
テレビプロデューサー
1937年(昭和12年)~2011年(平成23年)
1937年(昭和12年)、群馬県前橋市に生まれる。父が新聞記者であったため出生後すぐに長野県長野市に移り、その後も東京都杉並区、新潟県新潟市、新潟県高田市(現在の上越市)、秋田県秋田市、神奈川県横浜市と、平均2年半に1回のペースで転居・転校を繰り返した。そのためどこへ行っても東京弁を喋る「東京っ子」として異端視され、いじめられる日々を過ごす。また、転校のためにすぐ別れが来る悲しさが嫌で、小学生時代は友達を作らない主義を貫き、人を避けて映画やラジオ番組に没頭した。その後、神奈川県立横浜翠嵐高等学校から千葉県立千葉高等学校に編入学。浪人を経て東京大学文学部社会学科に入学し、1962年(昭和37年)大学時代の友人の誘いでフジテレビ(現在のフジ・メディア・ホールディングス)に入社。制作部に配属され、教養番組を2年間担当したのを皮切りに,音楽、ドラマ、クイズ、お笑いと様々な番組の制作に携わる。1968年(昭和43年)、フジテレビの労働組合運動にかかわって社長の鹿内信隆の逆鱗に触れ、フジテレビの出版部門に異動。1970年(昭和45年)には「経営合理化のため制作部門を分社」の大義名分のもと産経新聞出版局に左遷させられ、単行本の販売や編集の仕事に従事した。このとき、同じ業界の光文社の神吉晴夫から「既成概念にとらわれない」ということを学ぶ。1974年(昭和49年)、再びフジテレビの制作部に復帰し、『ママとあそぼう!ピンポンパン』で初プロデューサーを経験。1980年(昭和55年)には『THE MANZAI』で頭角を現し、従来の演芸番組のスタイルを脱した豪華なセットと若者向けの演出で漫才ブームに火を付けた。その後も『らくごin六本木』『スター千一夜』『笑ってる場合ですよ!』『森田一義アワー 笑っていいとも!』『オレたちひょうきん族』などを手掛け、1年先輩の日枝久や鹿内春雄とともに視聴率低下で苦境に立たされていたフジテレビの立て直しを果たした。また、お笑い界のビッグ3ことタモリ、ビートたけし、明石家さんまをスターダムへと押し上げることに一役買った。一方で、『オレたちひょうきん族』では、同番組内コーナー「ひょうきん懺悔室」で神父役として出演。この他に、番組内ではひょうきんディレクターズ等のコーナーで番組スタッフを番組に出演させ、それまで提供読みかスポットニュースくらいしか出番がなかった女性アナウンサーをコントの中に起用し、テレビではタブー視されていた楽屋落ちを寸劇の中に取り込むなど今日にも受け継がれているバラエティ番組の手法を多く開発した。1987年(昭和57年)には『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』第1回ゼネラルプロデューサーを務めたが、同年9月を以って自身がプロデューサーを務めていたレギュラー番組を全て降板。『オレたちひょうきん族』は三宅恵介、『笑っていいとも!』は佐藤義和と荻野繁、『いただきます』は山縣慎司がそれぞれ後任のプロデューサーとして就任した。降板後は、1989年(平成元年)に『テレビ夢列島』第3回総合プロデューサーを務め、1990年(平成2年)にはフジサンケイグループが資本参加していたレコード会社・ヴァージンジャパンの社長を兼任した。1992年(平成4年)・1993年(平成5年)、『平成教育テレビ』のエグゼクティブプロデューサーを担当。その後、役員待遇編成局ゼネラルプロデューサーに昇進。1994年(平成4年)、日本共産党の機関紙『赤旗』(現在のしんぶん赤旗)のインタビューを受け、自らの政治思想を語った記事が顔写真付きで同紙の一面に大々的に掲載された。当時まだフジテレビ社員であった上に、過去には反共主義を掲げている産経新聞のイメージキャラクターまで務めた横澤が、共産党の機関紙に登場した事は大きな話題となった。1995年(平成7年)、フジテレビを退社。定年を待たない退社となったが、人間に定年があるのがおかしいと思っており、定年という概念があってはならないとも思っていた。フジテレビ退社後は吉本興業役員に転じ、東京支社長や専務取締役を歴任。同社にはそれほど長く在籍するつもりではなかったが、後に吉本興業の社長となる林裕章に懇願され、長期にわたり勤めた。2005年(平成17年)、相談役を退任し、翌年からはインターネットサイト・J-CASTでコラム『横澤彪のチャンネルGメン69』の連載を開始した。『Gメン69』では、古巣の吉本興業やフジテレビに対しても歯に衣着せぬ主張を展開。一部の論考が反響を呼び、議論を沸騰させた。2007年(平成19年)、悪性リンパ腫の闘病を告白。一時は入院して闘病生活を送っていたが、晩年は抗がん剤などの治療で定期的に通院できるまでに体調が回復。しかし、2011年(平成23年)1月5日に高熱を発症。8日、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年74。
日本のバラエティー番組に革命を起こしたフジテレビの名物プロデューサー・横澤彪。即興性を重視したコント、女子アナとスタッフのタレント化、内輪でしかわからないネタを混ぜたトークなど、それまでになかった笑いの要素を次々に生み出し、凋落しかけていたフジテレビを一躍時代の寵児に伸し上げた。時はバブル景気間近という上り調子の頃であり、その場の勢いだけで突き進む横澤のバラエティーは時代と見事にマッチした。それだけに、今の時代に彼が手がけた番組を見直してみると何が面白いのか全くわからない。そして、賑やかさしか取り柄のない昨今のバラエティー番組を生み出すキッカケを作った横澤とフジテレビの功罪は大きいように思う。晩年、自身が売り出したビッグ3(ビートたけし・明石家さんま・タモリ)を持ち上げては現代の番組を批判するコラムを盛んに書いていたが、自分がその元凶を作ったということに気づくことは最後までなかった。良くも悪くも面白くなければテレビじゃない」をスローガンに現代のお笑い番組の基礎を築いた横澤彪。彼の墓は東京都大田区の池上本門寺にある。広大な敷地の墓には「横澤家之墓」とあり、両脇に墓誌が建てられている。戒名は「富岳院衆楽日彪居士」