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藤田元司(1931~2006)

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藤田 元司(ふじた もとし)

プロ野球監督
1931年(昭和6年)~2006年(平成18年)


1931年(昭和6年)、愛媛県新居浜市越智郡宮窪村四阪島に生まれる。小学校時代はひ弱でいじめられっ子だったが、中学校に入ると性格が急変し喧嘩に明け暮れる毎日を過ごす。旧制新居浜中学校(現在の愛媛県立新居浜東高等学校)在学中に終戦を迎え、同時期に知人が持っていたアメリカ製のマクレガーのグラブに魅せられ、野球をはじめる。その後、学制改革に伴い西条北高校へ転校。この頃は喧嘩も強く、番長格で高下駄を鳴らして闊歩したり、喧嘩相手を何日も待ち伏せしたりするなど、後のイメージとは正反対のバンカラであった。しかし、同校の野球部顧問が藤田の才能を認め、自然と落ち着いた性格に変わっていった。1951年(昭和26年)には夏の甲子園予選北四国大会準決勝に進むが、高松商に敗退し甲子園には届かなかった。高校卒業後は慶應義塾大学へ進学し、オーソドックスなオーバースローから繰り出す快速球を武器に東京六大学野球リーグのスター選手として神宮球場を沸かせた。リーグ戦では通算63試合に登板して31勝19敗、227奪三振を記録したが、リーグ優勝は1年春の1回のみで、度重なる力投が報われず「悲運のエース」と呼ばれた。大学卒業後は日本石油に入社。1956年(昭和31年)の都市対抗では、新人ながらエースとして2勝をあげ決勝に進出。熊谷組を降し神奈川県勢初の優勝を飾り、同大会の橋戸賞を獲得した。1957年(昭和32年)、大学の先輩である水原茂監督の誘いで読売ジャイアンツへ入団。1年目の同年から17勝を挙げて新人王に輝くと、1958年(昭和33年)には自己最多の29勝、1959年(昭和34年)には27勝を挙げてチームのリーグ優勝に大きく貢献し、2年連続シーズンMVPを獲得。同年年6月25日に天覧試合として行われた大阪戦(後楽園)では巨人の先発投手として晴れの舞台に立ち、完投勝利を挙げた。しかし、日本シリーズでは奮闘するもなかなか日本一の栄冠に届かず、大学時代同様プロでも「悲運のエース」と呼ばれることとなった。特に1958年(昭和33年)のシリーズにおいては、西鉄のエース・稲尾和久と並ぶ6試合に登板。防御率1.09を記録したものの、打線の援護なく1勝2敗に終わった。このシリーズでは、3勝1敗で迎えた第5戦、3-2と1点リードの9回裏2死3塁、あとアウト1つで日本一という場面まで迫ったが、このシリーズ不振だった関口清治に対し、胸元にシュートを投げて起死回生の中前タイムリーヒットを浴びている。結局この試合は稲尾のサヨナラホームランで西鉄奇跡の逆転優勝となった。翌年のシリーズでは南海のエース・杉浦忠の4連投4連勝の陰で第2戦、第3戦、第4戦と3試合連続で先発。その後、登板過多で肩を故障したことにより、1960年(昭和35年)以降は成績が急降下。1961年(昭和36年)の日本シリーズでは第3戦、第5戦に先発するもともに早い回でKOとなり、コーチ兼任となった1963年(昭和38年)の日本シリーズでは第2戦で城之内邦雄をリリーフして勝利投手になったものの4失点し、第4戦では先発するも4回途中で降板と、エースらしい働きはできなかった。1964年(昭和39年)に現役を引退。プロ入りの時期が遅かったこともあり、現役生活はわずか8年にとどまった。引退後は川上哲治監督の下、一軍投手コーチ(1965年 - 1969年, 1971年 - 1973年)、二軍投手コーチ(1970年)、スカウト(1974年)を歴任。堀内恒夫・高橋一三・菅原勝矢・倉田誠・関本四十四を育成したほか、渡辺秀武・中村稔を再生し、宮田征典をリリーフに転向させた。巨人退団後は秋山登監督の下で大洋ホエールズ一軍投手コーチ(1975年 - 1976年)を務め、奥江英幸・間柴富裕を育てるなど一定の成果を挙げたが、弱体投手陣を建て直すことは出来なかった。大洋退団後はNHK解説者・報知新聞評論家(1977年 - 1980年)の傍ら、川上を中心に行っていたNHK少年野球教室の講師を務めた。1981年(昭和56年)、長嶋茂雄の監督解任を受けて巨人の第10代監督に就任。ドラフトでは4球団競合で原辰徳を引き当てたが、絶大な人気を誇る長嶋解任の後任を受けた形だったため、世間の風当たりは非常に強く、自宅には熱狂的な長嶋ファンから抗議の手紙が殺到し、中には「娘を殺すぞ」と剃刀の刃を入れた悪質な手紙もあった。こうした「長嶋を窓際に追いやった男」という世間の逆風の中、藤田、王貞治(助監督)、牧野茂(ヘッドコーチ)の3者による「トロイカ体制」を敷き、江川卓・西本聖・定岡正二の先発三本柱を確立させた。また、日本海軍連合艦隊司令長官であった山本五十六の「やってみせ、言ってきかせて、させてみて、誉めてやらねば人は動かじ」を座右の銘とし、「誰だって怒られるよりは褒められた方が嬉しい。選手だって同じだ」と語って、短気な性格にも関わらず、選手のやる気を起こさせるのが上手い「誉め上手」の監督に徹して選手のやる気を導いた。こうした戦略が実り、就任1年目にしてリーグ優勝。その勢いのまま同年の日本シリーズでは、パ・リーグ覇者の日本ハムファイターズを破り、日本一に導いた。しかし、マスメディアは冷淡な反応を示し、1年目に日本一を達成しても「活躍しているのは、皆長嶋が伊東キャンプで鍛え上げた選手だ」と藤田より長嶋の功績を賞賛した。藤田はこうした状況にも冷静に対応していたが、当時オーナーの正力亨までがマスメディアの誘導尋問に乗って長嶋へのラブコールを送り始めると、さすがに堪忍袋の緒が切れ、単身オーナー室に乗り込んで正力に「私のことが不服なら、ユニフォームを脱いだっていいんです!!」と啖呵を切った。1983年(昭和58年)にもリーグ優勝を達成するが、日本シリーズでは西武との激闘の末、3勝4敗で敗退。助監督を務めていた王貞治に監督の座を譲る形で勇退し、再びNHK野球解説者に復帰すると同時に報知新聞客員解説委員にも就任するなど評論家活動を再開した。1988年(昭和63年)、シーズン終了後に王貞治が解任されたことを受け、務臺光雄読売新聞名誉会長から「老い先短い年寄りの願いをきいてくれ」と懇願され、第12代監督として復帰。前回同様に指導者として優れた人心掌握術・育成術を発揮し、槙原寛己・斎藤雅樹・桑田真澄の先発三本柱を確立させたほか、野手では川相昌弘・緒方耕一の積極的な起用、駒田徳広・岡崎郁の名脇役としての確立等、磨けば光る逸材を輝かせ、就任1年目でリーグ優勝を成し遂げると同年の日本シリーズで近鉄バファローズを下して日本一を達成した。翌年には上記の三本柱に宮本和知・香田勲男・木田優夫を加えた先発ローテーションの6人でチーム88勝のうち80勝を挙げ、完投数は70にも上り、ペナントを制した。リーグ2連覇を達成したものの、日本シリーズではまたも西武の前に敗れた。このときに語った「監督がヘボだから負けたんです」は、選手を責める発言をしなかったことで一部から賞賛された。しかし、専任のリリーフ投手を作らなかった事で分業制が進んで行く球界の時代の波に乗り遅れてしまい、1991年(平成3年)には先発陣の崩れを支えきれず下位に低迷。1992年(平成4年)には前年の惨敗の反省から石毛博史をリリーフエースに据えたが優勝に導くことができず、この年限りで監督を勇退した。監督退任後はNHKで野球解説者を務める傍ら、1990年代後半からは沢村賞選考委員を務め、1996年(平成8年)には野球殿堂入り表彰を受けた。また、王貞治が福岡ダイエーホークス監督として現場に復帰した時は、王の代理として世界少年野球推進財団の活動に参加し、世界少年野球大会の協賛行事として行われた日米オールスターゲームでは監督を務めた。2000年(平成12年)頃から体調を崩し、NHKでの解説の仕事も固辞して療養していたが、2005年(平成17年)に四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツのアドバイザリースタッフを務めた。2006年(平成18年)2月9日午後6時40分、心不全のため東京都世田谷区内の病院で死去。享年74。読売ジャイアンツでは数々の功績やその人柄を称え、黒沢俊夫、水原茂に続く史上3人目となる球団葬を執り行った。


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数あるプロ野球球団の中でも、とりわけ読売巨人軍は個性的で存在感が強烈な選手・監督が多い。水原茂、川上哲治、王貞治、長嶋茂雄…そうした個性派たちの陰に隠れながら、4度のリーグ優勝と2度の日本一に導いたのが名将・藤田元司である。日本シリーズを戦った西武ライオンズの監督・広岡達朗とは正反対の指導法で選手を育て、徹底的に「褒めて育てる」スタイルを貫いた。自らが選手を咎めることがなかっただけでなく、マスコミやファンから選手に対して厳しいコメントを寄せられても一貫して庇い続けた。読売巨人軍のモットー「巨人軍は紳士たれ」を見事に体現した藤田元司の墓は、東京都世田谷区の慈眼寺にある。墓には「藤田家之墓」とあり、左横に墓誌が建つ。戒名は「元投院球心篤應居士」

by oku-taka | 2017-11-07 19:39 | スポーツ | Comments(0)