2017年 10月 28日
荻昌弘(1925~1988)

荻 昌弘(おぎ まさひろ)
映画評論家
1925年(大正14年)~1988年(昭和63年)
1925年(大正14年)、東京府東京市小石川区大塚仲町(現在の東京都文京区大塚)に生まれる。物心つく前から映画を愛し、少年期には浅草で35ミリの名作映画のフィルムの断片を買い、映写機で壁に映し出して喜んでいた。小学校時代には榎本健一やジョニー・ワイズミュラーや大河内傳次郎に夢中になり、学校からの帰りには映画館のポスターを一字残らず暗記して帰るほどだった。その後、旧制開成中学校に入学。在学中、学校で開かれたマラソンの参加体験を「疲れた疲れた」と題して作文に書いたところ、作文教師の安村正哉から褒められて、文筆業に進む出発点となった。また、同校は単独で映画館に出入りすることを学校から禁じられていたため、隠れて『オーケストラの少女』『格子なき牢獄』『巴里祭』『望郷』『未完成交響楽』『舞踏会の手帖』『駅馬車』などの洋画に熱中した。1943年(昭和18年)、開成中学校を卒業。旧制高等学校の入試に失敗し、開成中学校からの推薦で二松學舍専門学校(現在の二松學舍大学)に無試験入学。しかし1年生の2学期からは戦争が盛んになったため授業がなくなり、赤羽の化学工場に勤労動員されて肥料作りを担当した。1944年(昭和19年)、徴兵検査で第2乙と判定され、小石川区役所から「筋骨薄弱でお国の役に立つかっ」と怒鳴られる。その後、強制的に熱海にあった合宿所の健民修練所に送られ、毎朝5時から夜まで1ヶ月間のしごきを受ける。1945年(昭和20年)春には召集令状を受け、同年5月15日、第二乙の陸軍二等兵として九州の西部243部隊に入り、壱岐で伝令として活動した。二等兵として復員後、1946年(昭和21年)に東京帝国大学文学部国文学科へ入学。在学中に中平康や渡辺祐介たちと「東大映画文化研究会」を結成し、映画評論家志望を宣言。1948年(昭和23年)、雑誌『映画評論』に「論壇時評」を執筆し、映画評論の仕事をスタートさせる。1951年(昭和26年)、新制東京大学を卒業し、キネマ旬報社に入社。『キネマ旬報』同人や『映画旬刊』(雄鶏社)編集委員を務めた。1956年(昭和31年)、『映画旬刊』廃刊に伴いフリーに転身。KRテレビ(後のTBS)の『映画の窓』でレギュラー司会者として映画解説を担当し、テレビのレギュラー番組を持った日本初の映画評論家となった。また、『週刊朝日』で映画評を8年間にわたって連載し、映画の素晴らしさをわかりやすい言葉で伝え若者の心をとらえた。1957年(昭和32年)、勅使河原宏、松山善三、羽仁進、草壁久四郎、川頭義郎、丸尾定、武者小路侃三郎、向坂隆一郎と「シネマ57」を結成し、短篇映画『東京1958』の共同製作に参加。1958年(昭和33年)、文部省芸術祭テレビ部門審査委員となる。1962年(昭和37年)、NHK演出審議会委員に就任。1970年(昭和45年)、4月より放送を開始したTBSテレビ『月曜ロードショー』の解説者となる。落ち着いた雰囲気で視聴者に語りかけ、映画が始まる前はストーリーには極力触れず、出演者やスタッフにまつわる話に絞った解説は好評を博し、1987年(昭和62年)9月の同番組終了、そして10月から同局の火曜日にスタートした『ザ・ロードショー』を含め足かけ18年間務めた。一方、東京都立大学で非常勤講師として映画を講義。食通としても知られ、さつま揚げやコンビーフやはんぺんなどを自宅で自製し、「男の料理」の先駆者としてその方面の著書も多く発表した。 この他、FM東京「オンキョー・ダイナミック・サウンド」などのラジオ番組のDJ、テレビの司会、旅番組のレポーターとしても活動。1982年(昭和57年)5月からはTBS系列『そこが知りたい』の初代司会者として1987年(昭和62年)9月まで務めた。1988年(昭和63年)春から体調を崩し入院。『ザ・ロードショー』の解説も5月31日の放送を以て一時降板し療養生活に入ったが、7月2日午前8時56分、肝不全により順天堂病院で死去。享年62。


今やテレビで洋画が放送されることは少なくなったが、かつては民放のテレビ局全てが映画関係者をホスト役にした2時間の洋画放送枠を設けていた。テレビ朝日の淀川長治、日本テレビの水野晴郎、フジテレビの高島忠夫、テレビ東京の木村奈保子、そしてTBSが荻昌弘である。各局の解説者たちは多種多様の持ち味で作品に華を添えたが、中でも荻の解説は品と知性に溢れた格調高いものであった。18年間務めたTBSでの映画解説、その最後となった『ビューティフル・ピープル』では「いのち万歳!大きな声で叫んでいただきたい」と解説をした。今にして思えば、余命幾許もないことを悟っていたのだろう。「いずれ必ずブラウン管を通して、お目にかかれる時が来ると思います」、この言葉を残して荻昌弘は世を去った。彼のお墓は東京都荒川区の本行寺にある。洋型の墓には「荻家」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「光映院明德日弘居士」

