2017年 10月 19日
五代目・三遊亭圓楽(1932~2009)
五代目・三遊亭圓楽(さんゆうてい えんらく)
落語家
1932年(昭和7年)~2009年(平成21年)
1932年(昭和7年)、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区)に生まれる。本名は、吉河 寛海(よしかわ ひろうみ)。実家は浄土宗の寺院・日照山不退寺易行院で、かつては浅草の清川町にあったが、後に足立区伊興町狭間(現在の東伊興)に移転している。生家には修行僧や使用人など年上の男性が他にも住んでいたため、幼少時の圓楽は自分の父親がそのうちのどの人かすら分からなかった。分かったのは5歳ぐらいで、食事時の無作法をたしなめた人がいて、その人との会話の中で初めてその人が父であることを知る。第二次世界大戦では東京大空襲に遭うも、一家は命をとりとめた。戦後は「これからは食糧難だから農業だ」という父親の薦めで農民になることを決意するが、当時の東京にはなかなか農業を学べるところがなかったことから、埼玉県立杉戸農業学校(現在の杉戸農業高等学校)に入学。在学中に上野鈴本演芸場で見た落語に感銘を受け、「戦争ですべてを奪われ暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせることができる落語はすごい」と落語家になることを決意する。1955年(昭和30年)、6代目 三遊亭圓生に入門。圓生に入門した理由は「当時は志ん生師匠や文楽師匠の方が師匠より格上だったが、高齢で自分の面倒を最後まで見てくれるか分からなかったから」と後に述べている。圓生からは「一人前になるまで50年は食えませんよ」と言われたが、圓楽は「30歳までに真打になれなかったら辞めます」と言って入門し、一番弟子として「三遊亭全生」(ぜんしょう)を名乗る。1958年(昭和33年)、二つ目に昇進。しかし、「噺は上手いが圓生の真似」と言われ、ストレスで一時は体重が48kgになったり自殺未遂をしかけるほど伸び悩む。その後、母親の「お前は名人だよ」の一言で、自分には応援してくれる人がいると感銘を受けスランプを脱出。1962年(昭和37年)、落語家を諦める期限としていた30歳を迎える直前で真打に昇進し、5代目 三遊亭圓楽を襲名する。襲名後はテレビやラジオへ積極的に出演し、衰退の一途を辿っていた寄席の隆盛に力を注ぐ。圓楽は落語界でタブーとされていた「キザ」の価値観をあえて持ち込み、自己のキャッチフレーズを「星の王子さま」として自らを売り出した。その結果、瞬く間にスターとなり、3代目 古今亭志ん朝、5代目 春風亭柳朝、7代目 立川談志とともに「四天王」と呼ばれ、次代の落語界を担う逸材と目されるまでになった。 1965年(昭和40年)、『笑点』の前身となる『金曜夜席』に出演。当初は大喜利コーナーの司会を担当したが、かなりぎこちない司会ぶりであったため、早々と演芸・対談コーナーの司会で企画立案者でもある立川談志に譲って辞任し、第4回から回答者となった。1966年(昭和41年)より放送が始まった『笑点』では初回から大喜利回答者として出演。1968(昭和43年)年に立川談志と当時のメンバーの対立により降板したが、1970年(昭和45年)に復帰。その後も、日本テレビ系ドラマ『笑ってよいしょ』に主演したり、日活映画『ハレンチ学園』シリーズに主要なコメディリリーフで出演するなど、噺家タレントブームを牽引した。しかし、圓生から「おまえは安っぽい芸人で終わるのか」と嗜められたことから、1977年(昭和52年)3月27日に『笑点』を再び降板。降板後は落語に専念し、寄席に活動の場を移す。同年、芸術祭賞優秀賞を受賞。1978年(昭和53年)に起きた落語協会分裂騒動では「師匠をおいて残れない」として圓生一門とともに落語協会を脱退。師匠と共に「落語三遊協会」を立ち上げた。1979年(昭和54年)に圓生が亡くなると、圓楽は新たに「大日本落語すみれ会」を設立。すみれ会はその後、「落語円楽党」「落語ベアーズ」と改称し、現在の「圓楽一門会」となった。1983年(昭和58年)、『笑点』の当時の司会者であった三波伸介の急死に伴い、1月9日から司会者として『笑点』に復帰。就任してからしばらくは、答えの合間にその博識を生かした都々逸をしばしば披露したり、しばしば台本を無視したり、「司会者が笑い過ぎ」といった理由で当初は批判も少なくなかった。それは従来と雰囲気を変えるために意図的に行ったことであり、徐々に出題、指名、座布団の差配など最小限の仕事に絞られていく。これは放送時間の短縮に加え、三波が司会をしていたころの司会者の強烈なキャラクターを柱とした番組から、スピーディーにやり取りする中でメンバーのキャラクターにクローズアップし、司会者だけでなくメンバー全員を主役とするという新しいスタイルに移行した結果である。司会就任後しばらくは視聴率面で苦戦を続けたものの、こうした番組作りの変化が功を奏し、次第にかつてのような人気番組の地位を取り戻していった。面長な容姿から「馬」呼ばわりされたり、小言が長いなどとネタにされたり、回答者の家族の悪口や下ネタを織り交ぜた回答をすると、爆笑しつつも容赦なく座布団を没収した。また、回答者だけでなく座布団運びも番組の流れに積極的に絡むようになり、回答者による座布団運びの山田隆夫罵倒ネタの際にはメンバーを座布団から突き飛ばすことが圓楽の助言をきっかけに定着化した。1985年(昭和60年)、「噺家の純粋培養」を企て、寄席に出られない圓楽一門の新たな活動の場として東京都江東区東陽町に自費で寄席「若竹」を設置。しかし、経営難に加え、弟子たちが圓楽の意に反して余興等に精を出して「若竹」の出番を休んでいたりしたことが度重なり、これに憤った圓楽は「若竹」の閉鎖を決意し、1989年(平成元年)11月25日に閉鎖した。「若竹」閉鎖後は、借金返済のために日本中で講演したため高座から離れる機会が多くなった一方、『笑点』の司会者として歴代最長の20年間を務め、日曜日夕方の顔として定着した。しかし、2001年(平成13年)2月11日の放送で、本来3問行われる大喜利を2問で終わらせようとしてしまった。 圓楽本人によると、このミスは脳梗塞の兆候の現れで、このことが切っ掛けで降板を考えるようになった。この他にも、2005年(平成17年)6月12日の放送でたい平の名前を思い出せず「誰だっけ?」と発言してしまったり、他のメンバーに対しても指名してから名前が出るまでに間が空くことがあった。結果、2005年(平成17年)10月13日に脳梗塞の症状が現われ入院し、10月16日分の放送を最後に番組を休養することとなった。2006年(平成18年)1月1日放送の新春14時間特番『大笑点』の終盤で久々のテレビ出演こそ果たしたものの、万全の体調ではなく、無理を押しての出演であった。同年3月26日から笑点の収録に復帰したもののやはり体調が万全でなく、冒頭の案内部分のみで大喜利司会には復帰できなかった。5月14日には放送開始40周年特番が放送されたが、この回を最後に勇退し、桂歌丸に司会の座を正式に譲った。2007年(平成19年)、落語会「国立名人会」で高座に復帰することとなり、自分の進退をかけ本番の半年前から稽古をして臨んだ。しかし、その出来に納得がいかずに引退を決意。口演後の記者会見で現役引退を表明した。また、4月1日放送の『いつみても波瀾万丈』の出演をもって、テレビ出演の引退も表明した。同年、旭日小綬章を受章。11月には胃癌の手術を受け、2008年(平成20年)3月に肺癌の手術を受けた。同年8月、愛弟子の楽太郎に自らの名跡である圓楽を6代目として襲名させることを表明した。2009年(平成21年)5月、肺癌が再発。同時期に脳梗塞も再発し、半身不随となった。9月に慶應義塾大学病院に入院し、本人の意向により10月23日に退院。10月29日、転移性肺癌のため長男宅で死去。享年76。
『笑点』で不動の地位を確立した庶民派落語家の代表、五代目・三遊亭圓楽。人情噺を得意とし、悲しい噺では実際に涙を流して演じたことから「泣きの圓楽」とまで言われた。かと思えば、端からニコニコしながら画面に登場し、途中でアハハハハと大口開けてゲラゲラ笑いだす。かと思えば、急に神妙な顔して相手の粗相を嗜める。これほど喜怒哀楽がはっきりとしているテレビ人は珍しいのではないだろうか。面白エピソードにも事欠かない人で、最たるものは弟子に小言をついていた際に大きい羊羹をバナナの皮を剥くように皮膜を剥がし、喋りながら2棹を平らげてしまったというもの。こうした愛すべき一面が長年お茶の間の支持を集めた要因のように思う。考えてみれば、圓楽が司会を務めていた時代の『笑点』が一番面白かったと強く感じる。大衆に慕われた落語家の墓は、東京都足立区の易行院にある。圓楽の実家であるこの寺院に建立したのが1988年(昭和63年)のことであり、他人の作った墓に入るよりは自身で早く作ってしまおうと考え墓石の素材等にこだわりを持って建てたとのこと。墓には「円楽之墓」とあり、左横に墓誌が建つ。戒名は「光岳院情誉圓楽寛海居士」。右横には、1972年(昭和47年)6月14日に発生した日本航空ニューデリー墜落事故で亡くした実妹の供養観音がある。