2017年 10月 15日
原田芳雄(1940~2011)
原田 芳雄(はらだ よしお)
俳優
1940年(昭和15年)~2011年(平成23年)
1940年(昭和15年)、東京府東京市足立区(現在の東京都台東区三ノ輪)に生まれる。5歳のとき、母親の実家のある栃木県足利市に縁故疎開。そこで見た代々伝わる土着芸や、青年部の村芝居を観たことが後の俳優活動の原点となる。また、幼少期より歌が好きで、美空ひばりとジョニー・マチスを愛唱していた。小学4年生の時に帰京。父親は人形師をしていたが、終戦後に失職。6畳と3畳のバラック住まいを余儀なくされ、芳雄は拾った鉄屑を売って小遣いにしていた。そうした環境から、ボクサーか歌手になってお金持ちになる夢を抱くようになる。中学2年のとき、文化放送の「素人ジャズのど自慢」に出場。バート・ランカスター主演の『バラの刺青』の主題歌「ローズ・タトウ」を唄うも、鳴った鐘はひとつだった。その後、エルビス・プレスリーの登場にショックを受け、歌手になることを諦める。1956年(昭和31年)、東京都立本所工業高等学校に入学。高校2年生の時、演劇をやっていた友人が原田家に台本忘れて帰り、その戯曲を眺めているうちに演劇への興味を持つ。その後、友人に誘われてアマチュア劇団の稽古に参加し、そのときに体験したエチュードの面白さに惹かれて俳優を志す。 高校卒業後はいったん就職するも、慣れないサラリーマン生活と俳優への夢が捨てきれず退職。仕出しのバイトを勤めながら仲間うちでの芝居に打ち込み、エキストラの仕事を探す日々を送る。1963年(昭和38年)、友人の勧めで俳優座養成所に入所。同期には地井武男、夏八木勲、林隆三らがおり、「俳優座花の15期生」と呼ばれた。1966年(昭和41年)、卒業と共に俳優座へ入団。1967年(昭和42年)、フジテレビ系ドラマ『天下の青年』で正式にデビュー。1968年(昭和43年)、NETドラマ『十一番目の志士』の土方歳三役で注目を集め、同年の松竹映画『復讐の歌が聞える』で銀幕デビューを果たした。デビュー当時は純朴な青年風キャラクターを多く演じていたが、1969年(昭和44年)のNET系ドラマ『五番目の刑事』でジープをかっ飛ばす原田の刑事役に感銘を受けた梶芽衣子が澤田幸弘監督に推薦し、翌年の日活映画『反逆のメロディ』に主演。続いて『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』で生涯の友となる藤田敏八と出会い、ワイルドなアウトロー風キャラへのイメージチェンジに成功。日活ニューアクションの一翼を担うスターとなった。1971年(昭和46年)、俳優座の体質を批判して市原悦子、菅貫太郎、中村敦夫らとともに退座。以降は、テレビドラマや映画を中心に活躍。その圧倒的な存在感と的確な演技力を武器に、日本を代表する映画監督はもとより若手の監督からも絶大な信頼を受け、100本を超える映画に出演。テレビドラマにも、NHK大河ドラマ『春の坂道』や日本テレビ系『冬物語』に出演するが、既成の枠に囚われることに疑問を持ち、他の映画会社とは一線を画す非商業主義的な芸術作品を製作・配給していたATG(日本アート・シアター・ギルド)の世界に活動を移す。特に黒木和雄監督作品には多く出演し、何れも高い評価を得ている。1975年(昭和50年)、『祭りの準備』でキネマ旬報助演男優賞、ブルーリボン賞助演男優賞を受賞。1976年(昭和51年)シングル『風が吹きます』をリリース。これを機に歌手活動にも力を入れるようになり、独特の渋い声を生かして多くのブルース曲を吹き込む。1989年(平成元年)、『どついたるねん』でキネマ旬報助演男優賞、報知映画助演男優賞、毎日映画コンクール男優助演賞を受賞。『キスより簡単』『夢見通りの人々』『出張』でキネマ旬報助演男優賞、毎日映画コンクール男優助演賞を受賞。1990年(平成2年)、『浪人街』『われに撃つ用意あり』でキネマ旬報主演男優賞を受賞。1992年(平成4年)、『寝盗られ宗介』でキネマ旬報主演男優賞を受賞。2003年(平成15年)には、これまでの功績が讃えられ紫綬褒章を受章した。2008年(平成20年)、早期の大腸癌が発見され入院。1ヶ月静養ののち同年末から仕事に復帰したが、この時点で既に末期の状態にあり、余命宣告がなされたが本人には告知されなかった。その後、抗がん剤治療を続けていたが、一進一退の状態が続いていた。2011年(平成23年)、かつてテレビドラマの収録で訪れた長野県下伊那郡に住む村人の思いに触れ、大鹿歌舞伎をテーマとした映画『大鹿村騒動記』を企画し発表。7月11日に都内で行われた同映画のプレミア試写会には、長女が押す車椅子で登壇した。会見では「この少し前に腸閉塞と誤嚥性肺炎を発症。さらに腰部脊柱管狭窄症を悪化させ、喉にも炎症を起こす満身創痍の中、本人の強い意志で参加」と説明されたが、実際は癌が進行・転移して既に歩行もままならない状態にあった。試写会あいさつでは石橋蓮司が原田のメッセージを代読。観客の喝采を浴びる中、感極まって涙をぬぐう場面もあった。このときの姿が公での最後となった。7月19日、遺作『大鹿村騒動記』の公開を見届けた3日後、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年71。没後、旭日小綬章を授与された。
1970年代の演劇界はワイルドでエネルギッシュな役者が非常に多かった。その代表が勝新太郎や夏八木勲、そして原田芳雄であった。アウトローな雰囲気を画面いっぱいに醸し出す独特な存在感、そして見る者を魅了させる圧倒的な演技力。その男臭い仕種と台詞回しは、あの松田優作が憧れ、その一挙手一投足を研究して模倣したとも言われている。かと思えば、好きな鉄道に夢中となっている姿はまるで無邪気な子供のようであり、バラエティー番組で見せるそのギャップさに思わず笑ってしまった。それだけに、『大鹿村騒動記』の試写会に登場した原田芳雄の姿には衝撃を受けた。車椅子に乗った彼は驚くほどに激痩せしており、獅子のような髪も既に無かった。これはもうダメかもしれない…不謹慎ながらにそう思った数日後、日本最高の個性派俳優は静かに旅立っていった。原田芳雄の墓は、東京都港区の善福寺にある。五輪塔の墓には直筆の「遊」の字が彫られてあり、右横にこれまた直筆のサインが彫られた墓誌が建つ。戒名は「釋 芳雄」