人気ブログランキング | 話題のタグを見る

吉行淳之介(1924~1994)

吉行淳之介(1924~1994)_f0368298_17193010.jpg

吉行 淳之介(よしゆき じゅんのすけ)

作家
1924年(大正13年)~1994年(平成6年)


1924年(大正13年)、作家の吉行エイスケ、美容家のあぐりの長男として岡山県岡山市に生まれる。2歳のときに両親が上京し、しばらくは父側の祖父母に育てられる。1930年(昭和5年)頃には両親に引き取られ、東京・麹町で育った。その後、府立一中、武蔵高等学校尋常科、府立高等学校尋常科の受験に失敗。麻布中学を経て旧制静岡高校(現在の静岡大学)文系仏語クラスに進学した。1944年(昭和19年)、徴兵検査を受け甲種合格。しかし、入営直後に気管支喘息と診断され即日帰郷となった。1945年(昭和20年)、東京帝国大学に入学。同年、再び徴兵検査を受け甲種合格となったものの、召集前に終戦となった。戦後は大学の授業にはあまり出席せず、新太陽社で編集のアルバイトをしていた。1947年(昭和22年)、社長の勧めで学業を放棄し、新太陽社に入社。『モダン日本』『アンサーズ』などの雑誌の編集に携わり、赤川童太、鈴木義司、富永一朗らを抜擢。新人漫画家の発掘の天才と言われた。その一方で、同人雑誌『世代』や『新思潮』などに年一作のペースで作品を発表。1952年(昭和27年)には『原色の街』が芥川賞候補となった。その後も『谷間』『ある脱出』が候補に上るも、肺に結核による空洞が見つかり会社を休職。翌年には退職し、病気療養生活を送りながら大阪朝日放送の放送原稿を書く生活を送った。1954年(昭和29年)、清瀬病院で肺切除の手術を受けて療養中だった最中、『驟雨』で第31回芥川賞を受賞。これを機に作家生活へと入った淳之介は、性を主題に精神と肉体の関係を探りながら人間性の深淵に迫る作品を多く発表し、安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎らと共に「第三の新人」と呼ばれた。また、長年にわたって週刊誌に対談コーナーを連載するほど「座談の名手」としても知られ、それらは『軽薄対談』『恐怖対談』などにまとめられている。私生活においては23歳のときに吉行文枝と結婚。文枝との間には女児を一人授かったが、1957年(昭和32年)に雑誌の対談で知り合った女優の宮城まり子と不倫関係に陥り、1960年(昭和35年)には文枝と別居。宮城は生涯に渡り同居した事実上の伴侶・パートナーとなったが、文枝は終生離婚に応じなかった。1965年(昭和40年)、『不意の出来事』で第12回新潮社文学賞を受賞。1966年(昭和41年)、『星と月は天の穴』で第17回芸術選奨文部大臣賞を受賞。同年、文学界新人賞と文藝賞の選考委員に就任。これを皮きりに、太宰治賞、芥川賞、泉鏡花文学賞、川端康成文学賞、谷崎潤一郎賞といった多くの文学賞の選考委員を長らく務めた。1970年(昭和45年)、『暗室』で第6回谷崎潤一郎賞を受賞。1975年(昭和50年)、『鞄の中身』で第27回読売文学賞を受賞。1978年(昭和53年)、『夕暮まで』で野間文芸賞を受賞。主人公の男と杉子という若い女性の性行為をしながらも最後の一線を許さず、オリーブオイルを塗った「すまた」で終わらせる設定が話題となり、中年男性と若い女性の愛人カップルを指して「夕暮れ族」という流行語を生むほどの社会現象となった。1979年(昭和54年)、これまでの業績が評価され、日本芸術院賞を受賞した。晩年はアルコール性慢性肝炎、右白内障、乾癬と次々に病気を発症し、それを克服しながら執筆活動を続けた。1992年(平成4年)、体調不良を訴え虎の門病院に入院。この入院時に肝細胞癌と診断されたが、本人へは「血管腫」と告げられ、未告知のまま2年半にわたりPEITを受けた。その後も入退院を繰り返すが、1994年(平成6年)5月17日に受けた血管造影の効果が乏しく、6月1日に検査担当医から本人に告知される。吉行は「シビアなことおっしゃいますな」と言った。7月21日、聖路加国際病院に転院。6日後の7月26日午後6時30分、肝臓癌のため聖路加国際病院で死去。享年70。葬儀は母・あぐりの決断で宮城まり子が一切を取り仕切った。


吉行淳之介(1924~1994)_f0368298_14173672.jpg

吉行淳之介(1924~1994)_f0368298_14173853.jpg

文壇きってのモテ男だった吉行淳之介。離婚に応じなかった正妻、今なおメディア等で吉行への愛を叫ぶ宮城まり子、没後に「あの作品のモデルは私!」と名乗り出てきたクラブの愛人…彼を巡って繰り広げられた女の争いの凄さはなかなかのものだった。あの加賀まり子をして「ベッドの中で、あたしがどんな呼び方をするか、試させて上げちゃおうかと思うほど、普段と違ってかわいかったの」(稲越功一『男の肖像』1981年 より)と言わしめるのだから、吉行淳之介という男は女心を擽る特殊な才能を持っていたのだろう。一方で、「性」を主題とした生々しい小説を多く発表してきた彼だが、その作品群は官能小説のネチっこさとはまた違うどこか瑞々しい芸術的な匂い立つ文学だった。なるほどモテ男は普通の人間とこうも違うのか…と改めて思い知らされた次第である。文学界のプレイボーイ・吉行淳之介の墓は、岡山市北区御津金川の吉行家墓地と東京都港区の持法寺に分骨されている。当初は前述の先祖代々の墓に埋葬されたが、2006年に妹の理恵が亡くなった際に母・あぐりによって後述の寺に分骨された。戒名は岡山の寺で付けられた「清光院好文日淳信士」
by oku-taka | 2017-10-14 17:50 | 文学者 | Comments(0)