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吉行あぐり(1907~2015)

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吉行 あぐり(よしゆき あぐり)

美容家・エッセイスト
1907年(明治40年)~2015年(平成27年)


1907年(明治40年)、岡山県岡山市に生まれる。本名は、吉行(旧姓:松本)安久利。幼少期の頃、家に来る髪結いが家族の髪を上げる姿を眺めるのに夢中となり、自然と美容に興味を持つようになる。その後、岡山県立第一岡山高等女学校に入学するも、在学中に父と姉がスペイン風邪で死去。母は住んでいた家を売って大金を得るも、知人に騙されて一文無しとなってしまう。そうした経緯から、亡くなった姉に来ていた吉行家との縁談を安久利に斡旋し、1923年(大正12年)後に作家となる吉行エイスケと結婚する。1925年(大正14年)、長男で後に作家となる淳之介を出生。1927年(昭和2年)、結婚後すぐに東京へ行ったエイスケを追い、淳之介を岡山の吉行家へ置いたまま上京。エイスケの勧めで日本の美容師の草分けと云われた山野千枝子の弟子となり、中野にあった山野邸へ住み込むようにしてパーマネントの修行を重ねる。一方で、夜になると上落合にあったエイスケ経営のバー「あざみ」のホステスとしても働き、辻潤や尾形亀之助といった文学界の人間たちとの交流も深める。1929年(昭和4年)、エイスケの進言で「山の手美容院」を開店し独立。1931年(昭和6年)には銀座の百貨店「伊東屋」内に初の支店がオープンした。私生活のほうでは、この頃に岡山から淳之介を呼び寄せ、共に暮らすようになる。しかし、1933年(昭和8年)に夫・エイスケが断筆。新興芸術派の旗手として活動していたが、第二次世界大戦に向かっていく時代ということもあって、徐々にその活躍を許される場は減っていた。断筆以降は兜町で株屋を営むも、なかなか上手くいかず、生活資金はあぐりの収入が頼みの綱となっていった。1936年(昭和11年)、岡山市の百貨店「天満屋」内に三号店を開店。この頃になると弟子を志望する人が増え、最盛期には30人もの弟子を抱えていた。1940年(昭和15年)、夫・エイスケが狭心症のため急死。淳之介、和子(1935/昭和10 生)、理恵(1939/昭和14 生)の三人の子と、エイスケが残した莫大な借金返済の為、あぐりはこれまで以上に仕事に打ち込む。しかし、1944年(昭和19年)に山の手美容院が建物疎開のため強制閉店。翌年には東京大空襲で自宅を焼かれ、何もかもを失った。戦後、山野千枝子の強い勧めで、世田谷に住む戦争未亡人のための美容教習所に講師として参加。1949年(昭和24年)、知人の紹介で知り合った新聞記者の辻復と再婚。1952年(昭和27年)、かつて山の手美容院のあった東京・五番町(市ヶ谷駅前)に「吉行あぐり美容室」を開店。1978年(昭和53年)までの27年間にわたり営業を続けた。1981年(昭和56年)、70歳以上の常連限定とした予約制美容室「吉行あぐり美容室」を再オープン。鏡一つ椅子ひとつ、一人で店を切り盛りするという新しいスタイルを打ち出した。1986年(昭和61年)には『梅桃が実るとき』を発表し、エッセイストとしての活動も始めた。同作は1997年(平成9年)のNHK連続テレビ小説『あぐり』として放送され、多くの人の共感を得た。同年、再婚相手の辻復が死去。これに伴い、再び吉行姓に戻した。90歳を過ぎても馴染みの客を相手に美容師として仕事を続けていたが、2003年(平成15年)に脳梗塞で倒れ入院。リハビリの末、身の回りのことを一通りこなせるまでに回復したが、2005年(平成17年)に美容室を閉店。2006年(平成18年)には転倒して股関節を骨折し、車椅子生活を余儀なくされる。以後、娘の和子や介護者らに支えられての生活を送った。晩年は購読していた2紙の新聞と子供たちが書いた本を読む日々を送り、時折エッセイや俳句・短歌などを記すなど、100歳を超えてなお矍鑠としていた。和子の談話によると亡くなる2日前まで自ら箸を持って食事をしていたが、2015年(平成27年)1月5日、肺炎のため自宅で死去。享年107。日本の美容師免許所持者の中で最高齢であった。


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女性の社会進出に偏見のあった時代に、家庭と仕事を見事に両立させて活躍した吉行あぐり。働く女性・働く母親の道をいち早く歩み、98歳まで現役美容師を続けた。産んだ子供のうち2人が作家、残る1人は女優、いずれもその世界で地位を築いたのだがら凄いことである。さらに驚くことは、本人が107歳まで生きたということ。朝ドラ『あぐり』の放送終了から既に8年の歳月が流れていた。このドラマにも描かれたように、彼女は波乱な生涯を常に前を向くことで乗り越え、波多き107年の生涯を見事に全うした。ドラマ終了後に娘の和子と一緒にテレビ出演しているのを度々見かけたが、語られるエピソードが「さすが明治女」だと思わされる強烈なものばかりで非常に愉快だった。しなやかなに見せながらも胸の内には熱い思いを煮えたぎらせているということが、そのときよくわかった。亡くなるまで好奇心と行動力を持ち続けた吉行あぐり。彼女の墓は、東京都港区の持法寺にある。墓には「吉行家之墓」とあり、右側面に墓誌が彫られている。
by oku-taka | 2017-10-14 15:00 | 衣・食・住 関係者 | Comments(0)