2017年 10月 11日
水木しげる(1922~2015)
水木 しげる(みずき しげる)
漫画家
1922年(大正11年)~2015年(平成27年)
1922年(大正11年)、大阪府大阪市住吉区で生まれる。本名は、武良 茂(むら しげる)。2歳頃、父の「大阪は空気が汚れていて乳の飲みが悪い」との考えで、父の故郷である鳥取県境港市に移住。幼少期はまかない婦として家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)に育てられ、彼女から語り聞かせられた妖怪の話に強い影響を受ける。比較的に恵まれた環境で育つが学校の勉強はできる方ではなく、尋常小学校在学時は体育と図画以外は総崩れだった。高等小学校時代も図画の成績は良く、小学校の教頭の勧めで授業で描いた絵の展覧会が公民館で開かれたり、学内コンクールでも金賞を何度も取ったりした。高等小学校卒業後は、旧制中学校に進学できなかったことから親戚の紹介で出生地の大阪に舞い戻り、石版印刷会社の田辺版画社に就職。しかし、生来のマイペースさから仕事に付いて行けず2ヶ月でクビになってしまう。次に小村版画社に入社したが、配達の道順が覚えられず、やっと道を覚えると今度は下町の職人達の手仕事を見物している内に荷物を届けるのを忘れる有り様で、二度目の会社も解雇。その後、体調を崩して黄疸を発症し、療養のため鳥取へと帰京。息子に労働は向いていないと思った父は、好きな絵の勉強を快諾し、無試験で入ることができる精華美術学院に入学した。しかし、美術学校というには小さな建物で、職員も校長が教員と事務員を兼任するという個人塾のような所で、授業内容も実践的な図案講習会に近かったことから失望し、学校へは行かず近所の森や山で時間を潰す日々を送った。その後、学校を選び直す事を思い立ち、東京美術学校(現在の東京藝術大学)を志望。高等小学校卒の水木には旧制専門学校の受験資格がなかった為、旧制中学校への入学を目指して精華美術学院を退校。大阪府立園芸学校(現在の大阪府立園芸高等学校)を受験したが、定員50名に対し受験者51名という低倍率で不合格だった。1940年(昭和15年)、新聞配達で働きながら日本鉱業学校採掘科を受験し合格。しかし、専門科目に全く興味が抱けず、成績不振且つ欠席が多くて半年で退学。間もなく新聞配達も辞め、大阪の朝日ビルディングの中にあった中之島洋画研究所に通うようになる。水木は両親と今後を話し合い、両親から日本大学付属の旧制大阪夜間中学校(現在の大阪学園大阪高等学校)への進学を勧められ、同校に入学。昼間には『支那通信』というガリ版新聞を配達する仕事に従事した。1942年(昭和17年)、徴兵検査を受け、体躯壮健ながら近眼であった事から乙種合格となり補充兵役に編入。1943年(昭和18年)には召集され、鳥取の歩兵第40連隊留守隊に入営した。その後、喇叭手になるも上手く吹けなかったことから配置転換を申し出た。曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられ、国内配置だと考えた水木は、寒いのが嫌いなので「南であります」と答えたところ、ニューギニア戦線・ラバウルに派遣される。その後、ニューブリテン島ズンゲンの戦いにおいて、水木は銃剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、落ち武者狩りをやりすごしつつ、奇跡的に生還。九死に一生を得て部隊に戻ると、「なぜ死なずに逃げたのか」と兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられた。これ以降、戦場でも朗らかだった水木は虚無主義的な考え方をするようになり、陰惨な日々を送る。帰還してまもなく行軍中に風邪を引いた際にマラリアを発症。追い討ちをかけるように敵機の爆撃で左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けるなど、再び半死半生の状態に追い込まれた。1945年(昭和20年)、他の傷病兵とナマレに設置された野戦病院でに送られ、現地で終戦を迎えた。こうした過酷な戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。1946年(昭和21年)、日本に復員し、片腕の本格的な治療のため国立相模原病院(現在の国立病院機構相模原病院)に入院。次第に絵に対する思いが湧き上がり、1948年(昭和23年)に武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)に入学。しかし、絵で食べていく事の経済的な厳しさを痛感して徐々に見切りを付け始め、数年後に中退した。その後、傷痍軍人の募金活動で訪れた神戸市の安宿の主人からアパートの購入を持ちかけられ、格安で購入。建物が神戸市兵庫区水木通にあった事から「水木荘」と名付け、大家業を始めた。1951年(昭和26年)、紙芝居作家の弟子をしているという青年がアパートに入居。その青年から紹介してもらった紙芝居の貸元に手製の紙芝居を持ち込んで回ったところ、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていた活弁士の鈴木勝丸が水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用。その後、鈴木が林画劇社から独立して自身の貸元「阪神画報社」を設立すると水木も引き抜かれ、専属作家となった。当初は本名で活動していたが、鈴木が水木の本名を覚えず、いつまでも「水木さん」と間違って呼ぶため、そのまま「水木しげる」のペンネームを使い始めた。1953年(昭和28年)、アパート経営に行き詰まり、水木荘を売却して大家業から手を引いた。居住を西宮に移し、紙芝居の専業作家として脇目も振らずに作品作りに没頭。「空手鬼太郎」「河童の三平」など後年の活躍に繋がる作品を制作したが、テレビや貸本漫画など他の娯楽に押されて紙芝居業界は急速に衰退。水木も紙芝居に見切りを付けて漫画家への転身を決め、1957年(昭和32年)に上京して貸本の版元に持ち込みを行い、兎月書房から別の作家が書き残した「赤電話」という漫画を完成させる仕事を受注。そして、1958年(昭和33年)に『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビューした。貸本時代は主に戦記漫画やギャグ漫画などを中心に制作し、ホラー漫画、SF漫画、ギャグ漫画、少女漫画、時代劇などの多彩なジャンルをさまざまなタッチで描き分けて発表。また、作家が他の出版社から作品を出すのを嫌がる傾向があったので、むらもてつ、東真一郎など複数のペンネームを使い分けて活動した。しかし、遅筆な上に出版社から「作風が暗い」と敬遠されるなど、作品が評価されず不遇の生活が続いた。この貧乏生活のさなか、すでに40歳近い水木を心配する両親の強い薦めで、島根県能義郡大塚村(現在の島根県安来市)出身の飯塚布枝と見合いをし、わずか5日でのスピード結婚を果たした。1960年(昭和35年)、かつて紙芝居作家時代に描いた「鬼太郎」を題材にした『墓場鬼太郎』シリーズの執筆を開始。第一作「幽霊一家」が貸本雑誌『妖奇伝』に掲載されるも、当初は全く売れず『妖奇伝』も第2号で打ち切りとなった。しかし、一部の読者から熱心な連載再開を要望する手紙が届き、倒産間際だった兎月書房は最後の希望を託して『墓場鬼太郎』シリーズの刊行を継続。これが人気作となり、水木しげるの名が知られる契機となった。その後、三洋社に移籍し『鬼太郎夜話』を刊行し人気を博す。次いで東考社から『悪魔くん』を出版したが、思ったより人気が出ず、全5巻の予定が3巻目で打ち切りとなった。1964年(昭和39年)、長井勝一から『月刊漫画ガロ』創刊号の参加を要望され、「不老不死の術」を掲載。以降、個性派揃いの作家陣が揃うガロにおいて、白土三平やつげ義春らと並ぶ看板作家として名を上げた。1965年(昭和40年)、講談社から『少年マガジン』での連載を依頼され、『テレビくん』を掲載。同年、『テレビくん』で第4回講談社児童漫画賞を受賞した。1966年(昭和41年)には『悪魔くん』がテレビドラマ化、『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』といった作品が『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』にそれぞれ掲載されるなど、漫画、テレビ、映画の世界が妖怪ブームとなった。また、民俗学での専門用語だった「妖怪」が、一般に伝わる経緯ともなった。こうした急増の仕事に対処するため、同年には水木プロダクションを設立し、池上遼一、つげ義春、鈴木翁二らが参加した。1968年(昭和43年)、『ゲゲゲの鬼太郎』がフジテレビ系列でアニメ化。以降、5度にわたりテレビアニメ化され、最大のヒット作となった。1973年(昭和48年)、『総員玉砕せよ!』を発表。後にアングレーム国際漫画祭遺産賞、米アイズナー賞最優秀アジア作品賞を受賞した。1980年代に入ると低迷期を迎え、水木も「妖怪なんていないんだ」と言い出すなど霊的世界への興味や創作意欲を失った。しかし、次女が修学旅行で「目々連」を目撃した話を聞き、見事に立ち直った。時同じくして鬼太郎を筆頭に全盛期に描いた妖怪漫画の度重なる映像化や再放送などで人気が復活し、世代を超えて知名度を得た。また連載を減らした時からアシスタントには趣味でもあった妖怪絵巻の制作を手伝ってもらい、膨大な数の妖怪画を蓄積していたが、こうした妖怪に関する考察や資料も作品の再評価に繋がった。ブーム再燃後は『のんのんばあとオレ』『コミック昭和史』など自らが描きたいと思う作品を選びながら執筆するようになり、個性派作家としての人気を確固たるものにした。1991年(平成3年)、紫綬褒章を受章。1992年(平成4年)には『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行し、話題を集める。その後、水木の周囲に妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、1995年(平成7年)に世界妖怪協会を設立。荒俣宏、京極夏彦、多田克己らが会員となり、「世界妖怪会議」が開催された。2003年(平成15年)、旭日小綬章を受章。2007年(平成19年)、『のんのんばあとオレ』でフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞した。晩年は水木の特異なキャラクターと戦後漫画の歴史を生きてきた数奇な人生が知られるようになり、水木自身について興味を抱かれる機会が増えた。特に、2010年(平成22年)に妻・布枝の著書『ゲゲゲの女房』がNHK連続テレビ小説としてテレビドラマ化されると水木の人生に注目が集まった。2015年(平成27年)11月11日、東京都調布市の自宅で転倒して頭部を強く打ち、都内の病院に入院。頭部打撲による硬膜下血腫を治療する為に緊急手術を受けた。頭部打撲は回復したものの、11月30日未明に容体が急変。午前7時18分、多臓器不全のため入院先の東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で死去。享年93。
妖怪漫画の第一人者・水木しげる。暗闇に潜む「人間以外のもの」の存在を漫画というツールでメジャー化させた功労者である。その豊かな発想力は、水木の感性を育んだ「のんのんばあ」の存在と「のんびり屋」の性格が生んだことは間違いないだろう。2010年放送のNHK『あさイチ』での生中継の際、テレビ出演よりも朝寝を優先して画面に全く出てこなかったのには非常に可笑しかった。また、90歳を超しても衰えぬ食欲にはたいへん驚かされ、カツ丼やハンバーガーを勢いよく喰らいつくように食べる姿は見ていて圧巻だった。それだけに、彼の訃報はあまりに突然だったように思う。激動の人生をのんびり生きた水木しげるの墓は、東京都調布市の覚證寺にある。五輪塔の墓には「南無阿彌陀佛」とあり、背面に墓誌が彫られている。入口の左門柱にはねずみ小僧、右門柱には鬼太郎があしらわれ、外柵には百鬼夜行の光景、砂かけ婆、子泣き爺が彫られている。1982年に生前墓として水木しげる自身がデザインしたというこのお墓。かつて「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが鬼太郎だった」と語っていただけに、実に水木しげるらしいお墓であると思った。戒名は「大満院釋導茂」