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升田幸三(1918~1991)

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升田 幸三(ますだ こうぞう)

棋士
1918年(大正7年)~1991年(平成3年)


1918年(大正7年)、広島県双三郡三良坂町(現在の三次市)に生まれる。本名は、升田 幸三(ますだ こうそう)。小学2年生のとき、将棋好きの7つ年上の長兄に将棋を教わる。両親は将棋も碁もやらず、とくに母親は夫が博打好きで苦労させられていたため勝負事を嫌っていた。その母に見つからないよう、兄は土蔵の中で弟に将棋を仕込み、幸三はめきめきと腕を上げた。その後、剣道家を志すようになった幸三だったが、自転車の事故で足を怪我して断念。それならばと将棋で身を立てる事を目指したが、子供が将棋を指すなんてとんでもないと考えていた母が棋士になることを許さなかった。1932年(昭和7年)2月、「日本一の将棋指し」を目指し、母の使う物差しの裏に「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪へ行く」の文言を墨でしたためたて家出。広島市で飲食店やクリーニング店の丁稚奉公をして汽車賃を貯め、家出から4か月後に大阪の木見金治郎八段の門下生となる。同門の先輩には大野源一、角田三男。後輩には、後に終生のライバルとなる大山康晴がいる。入門後は順調に昇段を重ね、初段になってからはめきめきと頭角を現す。この頃、阪田三吉から指導を受け「あんたの将棋は大きな将棋や、木村義雄を倒せるのはあんただけや」と激励される。しかし、1939年(昭和14年)に徴兵されて陸軍に入隊。1944年(昭和19年)には南方へ派遣され、トラック諸島のポナペ島に上陸する。同島は米軍の制空権下にあり、補給も途絶し、ジャングルの中を爆撃から逃げ回る苛酷な戦況に戦死も覚悟するが、同島には米軍が上陸してこなかったため玉砕は免れた。1945年(昭和20年)12月、命からがらで復員。この頃には木村義雄は名人として地歩を固め、木見門の弟弟子だった大山康晴も力をつけていた。升田も「打倒・木村」を胸に将棋を再開し、朝日新聞社の嘱託として活動を始めた。戦後の将棋界は、名人戦の予選として「順位戦」が創設され、八段棋士はA級、七段棋士はB級で順位戦を戦うことになった。当時の升田はB級であったことから、優勝はしたが名人には挑戦はできず、時の名人であった木村との勝負はA級順位戦に参加できる次年度に持ち越しとなった。しかし、木村がA級優勝者の塚田正夫に敗れ、名人の座を譲ってしまう。升田の思いは木村だけでなく名人の塚田を倒すことにも向けられた。1948年(昭和23年)、12勝2敗で順位戦を優勝。しかし、順位戦の制度がこの年のみ変更され、A級の上位3名とB級の優勝者の4名でもう一度挑戦権を争うことになり、B級の優勝者である大山康晴と3番勝負を行って名人挑戦権を争うことになった。寒さの苦手な升田は、主催の毎日新聞社に「せめて暖かい場所での対局を」と希望したが、対局場は雪の舞う和歌山県の高野山に決定。「高野山の決戦」といわれた3番勝負は1週間にわたって行われ、当初は升田が勝勢であったが第3局で手拍子の大悪手を指して頓死を食らい、挑戦権を逃した。このとき「錯覚いけない、よく見るよろし」という有名な言葉を残した。1950年(昭和25年)、前年に棋戦契約を巡って日本将棋連盟と決裂した毎日新聞社が「3番手直り指し込み」制度を付帯した王将戦の創設を連盟に申し込む。名人が香落ちに指し込まれかねない厳しい制度に棋士の間には反対意見が多く、特に升田は名人の権威にもとるとして強硬に反対した。しかし連盟会長であった木村は、連盟の逼迫した財政を立て直すには毎日との関係を修復するのが大事だと決断し、王将戦の創設を受諾。こうして、A級の上位5人によるリーグ戦を行い、リーグ戦優勝者が木村と七番勝負を行って王将を決める王将戦が開始された。1951年(昭和26年)、リーグ戦に勝利した升田が木村への挑戦権を獲得し、12月11日に第1期王将戦七番勝負が開始となった。1952年(昭和27年)2月11日・12日に大阪「羽衣荘」で行われた第5局では升田が勝利し、対戦成績を4勝1敗として木村王将を指し込み、王将位を獲得。第6局の前に升田が毎日新聞社に問い合わせると、「対局場所の『陣屋』は小田急線の鶴巻駅から歩いてすぐなので同行者は出さない」と告げられた。升田は「高野山の決戦」で毎日新聞社から数々の冷遇を受けたこと、真冬の高野山に行くのに毎日新聞社が同行者を出さなかったことで苦しんだため、この時点で毎日新聞社の対応に不快を感じた。小田急線に一人で乗り、駅から徒歩で「陣屋」に着いた升田は、玄関のベルを押したが迎えの者が出て来ない。奥で宴会をやっている様子で、玄関に立つ升田の前を女中が忙しく行き来するが升田には目もくれない。通りがかった番頭が奥に声をかけても、何度ベルを押しても誰も出て来なかったことから我慢の限界に達し、同じ鶴巻温泉の旅館「光鶴園」に入って酒を頼み、電話で積年の不満を毎日新聞の記者にぶちまけたという飲んでいるうちに気分が落ち着いた。「光鶴園」に泊まって、対局場の「陣屋」には翌日行って対局すれば良いと考え、「陣屋」に電話すると、主催社である毎日新聞の記者が出た。電話で事情を話すうちに升田は怒りが復活してきた。陣屋に居合わせた、棋界の大先輩である土居市太郎八段、毎日新聞の記者などの関係者が「光鶴園」に来て升田をなだめたが、翻意にしなかったことから第1期王将戦第6局は対局中止となった。後に「陣屋事件」と呼ばれた本件について、日本将棋連盟は升田の1年間出場停止と王将位の取り消し及び第1期王将の空位を決めた。この厳しい処分に世論が反発し、将棋通の著名人が連盟の対処の当否を巡って新聞や雑誌で議論を戦わせる事態となった。棋士からは「陣屋事件」について棋士総会に諮らず理事会だけの判断で升田を処分したことに異議が唱えられ、3月4日に開かれた棋士総会で「『陣屋事件』の解決については、木村義雄名人に一任する」という結論となった。3月15日、改めて開かれた臨時棋士総会で升田の停止処分は15日を持って解除という木村の裁定が発表された。これによって升田が第1期王将位を獲得したことが確定し、「陣屋事件」が起きた第6局は改めて升田の不戦敗。第7局は升田が勝ち、第1期王将戦は升田の5勝2敗で木村に勝利した。第1期王将となった升田だったが、1952年(昭和27年)度の第2期王将戦で大山康晴との「被挑戦者決定戦」に1勝2敗で敗れ、王将位を失った。1953年(昭和28年度)の第3期王将戦で大山に挑戦したが、2勝4敗1千日手で敗退。1954年(昭和29年)度は、健康状態が悪化した升田が1年間休場。再び大山に挑戦した1955年(昭和30年)度の第5期王将戦では、升田が第1局から3連勝、大山を指し込んで王将位を奪取。升田は香落ちの第4局と平手の第5局を連勝して「名人に香車を引いて勝つ」を実現した(第6局・第7局は、升田の健康状態が悪化したために実施されず)。この名勝負は現代でも語り草となっており、戦後の将棋界に「大山・升田時代」を築いた。1957年(昭和32年)の名人戦では大山を破り、史上初の三冠(名人・王将・九段)制覇を成し遂げた。一方で、升田は「魅せる将棋」を大切にし、「振り飛車」「居飛車」といった新手を指して既成の定跡にとらわれないイノベーションを数多く起こした。有名な新手には、「升田式石田流」「雀刺し」「急戦矢倉」「棒銀」「ひねり飛車」「対ひねり飛車タコ金」「角換わり腰掛銀升田定跡」「駅馬車定跡」「居飛車穴熊」などがある。こうした功績が認められ、1973年(昭和48年)には紫綬褒章を受章した。しかし、戦争中に患った病気が元で体調を崩し、現役晩年は休場の年も多くなっていった。1979年(昭和54年)、順位戦A級から一度も陥落することのないまま引退。このため将棋連盟では1988年(昭和63年)に升田のために新たな称号を作って「実力制第4代名人」の称号を贈った。晩年は羽生や先崎学といった若手強豪や観戦記者と、碁を楽しんで余生を送った。1991年(平成3年)4月5日午前6時27分、 心不全のため東京・中野の慈生会病院で死去。享年74。


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独特な風貌に派手な言動、そして豪快な棋風で今なおカリスマ的人気を誇る升田幸三。「新手一生」を掲げて独創的な新手を次々に生み出し、「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」とまで評された。ライバル・大山康晴との勝負は実に絵のように美しかった。何本もタバコをプカプカと吸う升田に対し、アゴをじっと引いて寡黙に将棋盤を見つめる大山。「静と動」を体現しているかのような対局姿は、将棋がわからない者が見ていても興奮を覚えてしまうぐらい素晴らしい二人の世界だった。晩年は仙人のような風貌になっていた升田幸三。彼のお墓は東京都世田谷区の常栄寺にある。墓は将棋の駒型で升田の座右の銘だった「新手一生」が彫られており、左横に墓誌が、右横に升田の諸歴が記された碑が建つ。戒名は「威徳院釋幸王居士」

by oku-taka | 2017-10-07 21:35 | スポーツ | Comments(0)