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いかりや長介(1931~2004)

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いかりや 長介(いかりや ちょうすけ)

コメディアン
1931年(昭和6年)~2004年(平成16年)


1931年(昭和6年)、東京府東京市本所区中之郷横川町(現在の東京都墨田区東駒形)に生まれる。本名は、碇矢 長一(いかりや ちょういち)。1944年(昭和19年)、本所区横川国民学校(現在の墨田区立横川小学校)を卒業。戦争の激化に伴い静岡県富士郡吉原町(現在の富士市)へ疎開し、吉原第三中学校へ入学。翌年に同地で終戦を迎えた。中学校卒業後は単身東京へ戻り、東京都立本所高等学校に進学。しかし、同校を中途退学し、静岡の製紙工場(春日製紙)に就職した。その後、女性に「モテたい」という動機から同僚とハワイアンバンドを結成し、ダンスホールなどで活動。1959年(昭和34年)、ミュージシャンを目指して再上京。叔父の洋品店を手伝う傍ら、ロカビリーバンド「クレイジーウェスト」に参加。1961年(昭和36年)にはカントリーウェスタンバンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」にベーシストとして加わり、立川や横須賀、横田の米軍キャンプで巡業した。しかし、同年12月31日、巡業の往路で交通事故を起こして「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」の所属事務所と関係が悪化。1962年(昭和37年)、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に参加。1964年(昭和39年)、桜井の後任としてリーダーに就き、「碇矢長一とザ・ドリフターズ」にグループ名を改称。しかし、リーダとなった碇矢の厳しさとコントの方向性の違いによってメンバーたちがクーデターを起こして大量脱退。そのため、他のバンドのメンバーに移籍話を片っ端から持ちかけ、ギター・ヴォーカルの仲本興喜(仲本工事)、ギターの高木友之助(高木ブー)、キーボードの荒井安雄(荒井注)サックスの綱木文夫(後に脱退)を加入させることに成功。碇矢の強い慰留で残った加藤英文(加藤茶)を加えて「ザ・ドリフターズ」を再結成。1965年(昭和40年)にはナベプロの傘下に入り、当時人気絶頂だったハナ肇とクレージーキャッツの後輩として売り出された。クレージーとの初対面の時に、リーダーのハナ肇から「いかりや長介」の芸名を与えられ、以来その芸名で通すことになる。1966年(昭和41年)、ビートルズの日本武道館公演において前座として出演。仲本のヴォーカルで『のっぽのサリー』(Long Tall Sally)を演奏した。その後、NETテレビ『大正テレビ寄席』にコミックバンドとして定期的にゲスト出演。第一次演芸ブームに乗って徐々にドリフの人気が高まる。1967年(昭和42年)、映画『なにはなくとも全員集合』で初主演。同年、ドリフにとって初の冠番組となる『ドリフターズドン!』がTBS系でスタート。1968年(昭和43年)『ズッコケちゃん/いい湯だな(ビバノン・ロック)』でレコードデビュー。1969年(昭和44年)、公開バラエティー番組『8時だヨ!全員集合』がスタート。大がかりな舞台装置を使ったテンポのよい爆笑コントで子供たちから絶大な人気を誇り、番組の中から「オイッス!」「だめだこりゃ」といった流行ギャグが生まれた。また、最高視聴率50.5%、13年連続平均視聴率30%以上という大記録をうち立て、“お化け番組”と呼ばれた。同年、『ドリフのズンドコ節』が60万枚以上の大ヒットを記録し、翌年の第12回日本レコード大賞で大衆賞を受賞した。1973年(昭和48年)、荒井注が体力の限界を理由に脱退を宣言。翌年、付き人の志村けんが正規メンバーとなるが、新人志村が軌道に乗らず人気に陰りが見え、フジテレビ『欽ちゃんのドンとやってみよう!』に押され気味となる。1976年(昭和51年)、ネタ会議中に志村が鼻歌で歌った『東村山音頭』を気に入り、東京都東村山市のローカルな音頭であった同曲をアレンジして番組で披露。これが大ヒットとなり、加えて加藤・志村のヒゲダンスも人気を集め、再びドリフはお笑い界の頂点に返り咲く。1977年(昭和52年)、フジテレビ系で『ドリフ大爆笑』がスタート。また、メンバーが声をあてた人形劇『飛べ!孫悟空』がTBS系で放送開始され、ドリフターズは絶頂期を迎える。しかし、1983年(昭和58年)頃から、いかりやとスタッフ、いかりやと加藤&志村組の不協和音が見られるようになり、番組会議からも外されるようになるなど、ドリフの主導権は徐々に志村や加藤に移行されていった。また、全員集合は視聴率で『オレたちひょうきん族』に抜かれ、ドリフ人気に再び陰りが見え始める。1985年(昭和60年)、16年間続いた『8時だヨ!全員集合』が終了。ドリフターズの活動も『ドリフ大爆笑』などの一部を除き、基本的にメンバー全員揃っての活躍は一時停止状態となった。いかりやは俳優としての活動を始める。1987年(昭和62年)、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』に出演し、同作がきっかけで俳優としてブレイク。1994年(平成6年)より始まった日本テレビの火曜サスペンス劇場『取調室』シリーズ、1997年(平成9年)からの『踊る大捜査線』和久平八郎役、2001年(平成13年)TBSの月曜ミステリー劇場『弁護士猪狩文助』シリーズなど、存在感のある俳優として新境地を開いた。1999年(平成11年)、『踊る大捜査線 THE MOVIE』で第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。2001年(平成13年)、NHK『第33回思い出のメロディー』にドリフターズで出演。これが好評を博し、大晦日には『第52回NHK紅白歌合戦』に正式な歌手として最初で最後の出場を果たす。2003年(平成15年)、原発不明頚部リンパ節癌により緊急入院。闘病生活を経て、同年7月17日に一旦退院する。担当医からは「余命はもって数ヶ月」であると宣告されていたが、本人には伝えられなかった。2004年(平成16年)3月15日、がんの転移により東京都港区の東京慈恵会医科大学附属病院に再入院。3月20日午後3時30分、原発不明頚部リンパ節癌のため逝去。享年74。


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1970年代から80年代にかけ、多くの子供たちを笑いの渦に包んだザ・ドリフターズ。そのリーダーとして土曜20時の冠番組をお化け番組にまで成長させたいかりや長介。コントネタの厳格なまでの作り込み、ギャラの配分をめぐってのメンバー対立など、そのワンマンっぷりが度々笑い話としてメンバーたちから披露されているが、そうした厳しい采配によってグループを見事にまとめ、ドリフ黄金時代を築いたのだと思う。そうした背景があるからか、コントでいかりやをコテンパにやっつける加藤と志村は実にイキイキしていた。平成期には名脇役としての地位を確立。これからも渋みのある演技を見せてくれると信じて疑わなかっただけに、あの日の夜に流れた突然の訃報には驚きを隠せなかった。あれから13年、いかりや長介のお墓は東京都葛飾区の蓮昌寺にある。墓には「碇矢家之墓」とあり、右に先祖代々の五輪墓と墓誌が建つ。戒名は「瑞雲院法道日長居士」

by oku-taka | 2017-09-23 23:41 | コメディアン | Comments(0)