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今井正(1912~1991)

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今井 正(いまい ただし)

映画監督
1912年(明治45年)~1991年(平成3年)


1912年(明治45年)、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区広尾)に生まれる。生後すぐに中耳炎にかかり、右耳の鼓膜がなくなり聴覚を失った。1924年(大正13年)、旧制芝中学校(現在の芝中学校・高等学校)に入学。この頃から映画を多く観るようになり、ジャック・カトラン主演の『嘆きのピエロ』やチャップリンの喜劇を鑑賞している。1929年(昭和4年)、旧制水戸高校に入学。在学中、マルクス主義に関心を持ち、雑誌『戦旗』に感激してからは学内の秘密組織読書会のメンバーとなった。翌年、特別高等警察に連行され、1年間の停学処分を受ける。1933年(昭和8年)、東京帝国大学文学部美術史科に入学。学生左翼運動にますます打ち込むようになり、在学中は学内の秘密組織に入って本富士警察署に検挙された。1934年(昭和9年)、1年間の停学処分を受け、そのまま中退する。1935年(昭和5年)、京都のJ.O.スタヂオの入社試験に挑戦し、500人近くの応募者の中から合格して入社となった。1936年(昭和11年)、伊丹万作監督の『新しき土』で初めてロケハンに参加。その後、石田民三監督『花火の街』でチーフ助監督につき、中川信夫監督の『日本一の岡ッ引』ではスクリプターを担当。他にも、志波西果、並木鏡太郎、渡辺邦男監督に1作ずつ助監督として就いた。1937年(昭和12年)、J.O.スタヂオが東京・砧のP.C.L映画製作所、東宝映画配給、写真化学研究所の3社と合併。東宝映画株式会社が設立され、J.O.スタヂオは東宝映画京都撮影所となった。今井は所長の渾大防五郎に抜擢されて入社2年目で監督昇進を指名され、異例のスピード出世を果たす。さっそく処女作の『沼津兵学校』に取り掛かるが、出演俳優が兵役に取られるなどして完成が遅れ、2年後の1939年(昭和14年)に公開された。その後、陸軍少将飯塚国五郎の実話を基にした『われらが教官』、井伏鱒二原作の『多甚古村』、石川達三原作の『結婚の生態』など作品を発表し続けるが、いずれも成功作とはならなかった。1943年(昭和18年)、朝鮮の国境警備隊と抗日ゲリラとの戦いを描いた『望楼の決死隊』を監督。西部劇さながらのアクションシーンを取り入れ、入念に作られたアクション映画として評判となった。しかし、植民地支配を正当化する軍国主義映画のため、後年若い批評家から「左翼のくせにあんな映画を作って」と批判されるなど、マルクス主義者の今井としてはマイナスになる作品だった。同年、教育召集のため麻布の歩兵第1連隊に入隊したが、3ヶ月で除隊。戦後になると、映画界はGHQが間接的に干渉し、民主主義啓蒙映画の製作を指示するようになる。今井も民主主義啓蒙路線に転向し、1946年(昭和21年)に戦中の財閥の腐敗を描いた『民衆の敵』を発表。毎日映画コンクール監督賞を受賞し、高い評価を得る。また、貧しい撮影条件下から生み出されるイタリア映画のネオ・リアリズムに強い影響を受ける。1949年(昭和24年)、石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』前後篇を監督。戦後の民主主義を高らかに謳い上げ、同名の主題歌とともに大ヒットを記録。今井も第1級の監督として注目される。この頃から自由に作品を作りたいと感じ、東宝を退社してフリーとなる。1950年(昭和25年)、フリーの立場で『また逢う日まで』を監督。戦争によって引き裂かれた恋人の悲劇を描き、主演の岡田英次と久我美子のガラス窓越しのキスシーンが話題となった。作品はキネマ旬報ベスト・テン第1位に輝き、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞した。その後、GHQの指令で左翼系映画人たちを映画会社5社から締め出すレッドパージが施されると、東宝争議で組合側に加担していたことから仕事ができなくなると感じた今井は、生計を立てる為に屑物の仕切り屋を開業。しかし、集めた鉄くずが朝鮮戦争の兵器に使われることを知り、この仕事を辞めた。その頃、レッドパージで追放された映画人が次々と独立プロを立ち上げて活動するようになり、今井も1951年(昭和26年)に山本薩夫・亀井文夫らの新星映画社で当時ニコヨンと呼ばれた日雇い労働者たちの生活を描いた『どっこい生きてる』を監督した。1953年(昭和28年)、東映に招かれて『ひめゆりの塔』を監督。沖縄戦で看護婦として前線に送られたひめゆり学徒隊の悲劇を描いた本作は大ヒットを記録し、発足以来赤字に悩んでいた会社を救った。その後、文学座と組んだ樋口一葉原作のオムニバス映画『にごりえ』、高崎市民オーケストラの草創期を描いた『ここに泉あり』など、独立プロ運動の1番手としてヒューマニズム映画の傑作を次々に発表する。1956年(昭和31年)、八海事件の裁判で弁護士を担当した正木ひろしの手記を映画化した『真昼の暗黒』を監督。映画化にあたっては入念な調査を行い、裁判で死刑を宣告された被告の無罪を主張。警察・検察・裁判所の非を徹底的に批判した。製作時は裁判が継続中だったため、最高裁判所から圧力がかかるも、今井はそれに屈せず作品を作り上げ、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞した。1957年(昭和32年)、東映で『米』を監督。霞ヶ浦や湖岸の田園風景を背景に農村の貧困を描き、今井にとって初のカラー作品となった。同年公開の『純愛物語』は、原爆症の少女と不良少年の恋を描いた恋愛映画で、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 監督賞を受賞した。1958年(昭和33年)、独立プロで近松門左衛門の『堀川波鼓』を映画化した『夜の鼓』を製作。今井にとって初の時代劇となったこの作品は、封建時代の武士の妻の姦通事件を扱い、武家社会をリアリズムで描き出した異色作として評価された。1959年(昭和34年)、人種差別批判をテーマにした『キクとイサム』を監督。黒人との混血の姉弟と、彼らを引き取って育てる老婆の交流を描き、今井の代表作となった。1963年(昭和38年)、中村錦之助主演で封建社会の残酷さを7つの物語で描いた『武士道残酷物語』を監督。第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した。テレビの進出で映画が斜陽化する中、今井もテレビドラマに進出し、1966年(昭和41年)から「今井正アワー」で5本のドラマを演出。1967年(昭和42年)には渥美清主演の『渥美清の泣いてたまるか』で4本を演出し、後に『天皇の世紀』でも2本を演出している。1968年(昭和43年)、住井すゑ原作の『橋のない川』を映画化するために図書月販の傍系会社ほるぷ映画を設立。翌年に『橋のない川』第一部、1970年(昭和45年)に第二部を製作するが、第二部製作中に今井が党員の日本共産党と部落解放同盟の対立により同盟から妨害を受け、公開後も上映阻止運動が起きた。1971年(昭和46年)、永年にわたって幽閉生活を強いられている家族を描いた『婉という女』を監督するが、完成後に資金難からほるぷ映画を解散する。その後は、渥美清企画・主演の『あゝ声なき友』、小林多喜二の生涯を描いた『小林多喜二』、室生犀星原作の『あにいもうと』などを監督するが、いずれも大ヒットには至らず不遇の時を過ごす。1982年(昭和57年)、胃癌のため稲城市立病院に入院。この4年後には白内障と緑内障で両目を手術し、左眼を失明する。ほかにも脳血栓や心臓大動脈瘤など次々と病気を発症した。1991年(平成3年)、一般市民から一口10万円の出資を募る市民プロデューサー方式で『戦争と青春』を製作。同年、上映キャンペーンのため全国各地を回るが、埼玉県草加市での上映挨拶に向かう途中、車中でくも膜下出血に倒れ、11月22日午後3時20分に草加市立病院で死去した。享年79。


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社会派映画の巨匠として日本映画史に燦然と名を残す今井正。キネマ旬報のベストテンには実に22回も入選し、ベストワンを5回も取るという文句なしの名匠だった。それだけに、『あゝ声なき友』に始まる後年の今井作品は見ていて非常につらかった。時代に乗り切れていないというのはこうもキツイものなのかと、鑑賞後に堪らなくやるせない思いを抱いた。『青い山脈』『にごりえ』『ここに泉あり』『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』、人間の生きざまを抒情的に描いた今井作品の面白さは、やはり白黒時代の日本映画黄金期に発表された作品に凝縮されていると感じる。左翼ヒューマニズムを代表する名匠・今井正の墓は、東京都渋谷区の瑞泉山墓地と神奈川県厚木市の厚木霊園にある。前者の墓には「今井氏之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「大観院映譽正徹居士」。後者の墓は洋型で「今井家」とあり、背面と左側に墓誌が刻まれている。


by oku-taka | 2017-09-17 23:45 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)