2017年 09月 17日
金田一春彦(1913~2004)
金田一 春彦(きんだいち はるひこ)
国語学者
1913年(大正2年)~2004年(平成16年)
1913年(大正2年)、アイヌ語研究で知られる国語学者・金田一京助の長男として、東京市本郷区森川町(現在の東京都文京区本郷六丁目)で生まれる。1921年(大正10年)、真砂小学校(文京区立本郷小学校の前身校のひとつ)に入学。在学中は国語よりも算術や地理や唱歌に興味を示す。また、本居長世から歌唱の指導を受け、頭を撫でてもらったことから、本居の人柄を慕うようになった。4年生のときには、本郷区全体の小学校の唱歌会に真砂小の代表者として出場し独唱する。この頃、『国語の発音とアクセント』で当時話題になっていた言語学者・佐久間鼎の学説を自らの発音に基づいて批判し、京助から喜ばれる。このとき褒められた経験が自信となり、後年アクセントの研究者として一家を成すに至ったという。また、盛岡出身で標準語の発音に疎い京助のため、幼時からインフォーマントとして研究に協力していた。1924年(大正13年)、東京府豊多摩郡杉並町成宗(現在の杉並区成田東四丁目)への転居に伴い、杉並第二小学校に転校。6年生のとき、童謡教室「阿佐ヶ谷童謡楽園」に通い、当時小学校2年生だった安西愛子と知り合う。1926年(大正15年)、東京府立第六中学校(東京都立新宿高等学校)に入学。折しも円本の全盛期であり、芥川龍之介、国木田独歩、谷崎潤一郎、藤森成吉などを愛読する。しかし、体操の教師と折り合いが悪く、鉄道自殺を企てたほど悩み抜き、早く六中から逃げようと1930年(昭和5年)4月に4年修了で旧制浦和高等学校文科甲類に入学する。入寮の夜、1級上の春日由三(後のNHK編成部長)の「諸君は恋を得よ」という演説に感動し、その影響で当時東京府立第五高等女学校の1年生だった安西愛子に生涯一度の恋文を送る。しかし、その恋文は愛子の目に触れることなく、代わりに愛子の父・安西庫司から懇々と春彦の非を諭した返事が来た。この失恋の件が寮全体に知れ渡り噂になったため、恥ずかしさのあまり学校にほとんど出られなくなり、病気と称して1年生をもう一度やり直すことになった。また、通常より1年早く4年修了(飛び級)で入学したため自分が人間的に充分成長していないのではないかという不安、倉田百三や阿部次郎や西田幾多郎の著書に代表されるような旧制高校的教養主義への違和感なども留年を決めた理由となった。その後、金銭的に報われぬ京助の生活を目の当たりにして育ったこと、親の七光りと言われるのを望まなかったこと、学業に関して京助に引け目を感じていたことなどから学者以外の職業に就くことを望み、京助が唯一苦手だった音楽の道に着眼して作曲家を志望。1931年(昭和6年)、京助の紹介で本居長世の門人となる。しかし、本居のピアノ演奏の鮮やかさに接して自らの音楽的才能に絶望したことや、本居から「あれはお父様のあとを継ぐ人だ」と評されたのを人づてに知らされたことが理由となって、1932年(昭和7年)の夏休みに学者志望へと転じた。京助には「僕もお父さんのような学者になろうと思います」と言ったところ、喜んだ京助から日本語の方言のアクセントに関する服部四郎の論文集を渡されて通読し、大いなる感銘を受けた。服部が日本全国の方言のアクセントを明らかにしようと志しつつも満州事変勃発によって満蒙語の研究に転じたことを知り、服部がやり残した部分の日本語の方言アクセントを研究しようと決意する。1934年(昭和9年)、旧制浦和高等学校文科甲類を卒業し、東京帝国大学文学部国文学科に入学。当初は言語学科を志望していたが、言語学科出身の父から卒業しても就職困難なることを知らされ国文科に進学となった。在学中は方言学の研究を志していたものの、方言学の論文を書いても就職できないことを知り、日本語の歴史的研究に転ずる。1936年(昭和11年)、満州より帰朝し東大講師に就任した服部四郎から直接指導を受けるようになる。卒論では、平安時代のアクセントを示す好個の資料である観智院本『類聚名義抄』を題材にして、日本語のアクセントを歴史的に研究した。1937年(昭和12年)には東大大学院に進み、埼玉県東部方言のアクセントを調査。秋に東京方言学会で研究成果を発表したところ、東條操から高く評価され、学界での評価の礎を築いた。1938年(昭和12年)、大学院に籍を置いたまま応召して帝国陸軍の甲府歩兵第49連隊に入営。間もなく朝鮮半島に送られ、京城(ソウル)郊外の龍山歩兵第79連隊に移された。学歴を使い幹部候補生に応募する事をせず、通常の徴兵検査を通し入営した為、二等兵として軍隊生活を送る事となった。新兵に対する激しいしごきに苦しんだ春彦は、マントー氏反応(現在のツベルクリン反応)を見る注射の痕を意図的に掻き毟り、軍医に結核と誤診させて龍山の陸軍病院に入院。秋には除隊となり、半年ぶりに帰京。房総半島、冬には伊豆半島下田のアクセントをそれぞれ調査する。1939年(昭和14年)、伊豆大島に渡って3月から4月までアクセントを調査する。続いて、静岡県、山梨県、長野県、愛知県、近畿地方、香川県、徳島県、愛媛県などを調査。その傍ら、平家琵琶や仏教歌曲を題材に過去の日本語のアクセントを1年間研究する。1940年(昭和15年)、京助による家庭内支配に息苦しさを感じ、大学院生活に終止符を打つことを決意。旧制高校の教師として働くことを希望したが、専門分野の特殊性ゆえに叶わず、渋々ながら東京府立第十中学校(東京都立西高等学校)の国語教師となった。同年、見坊豪紀の依頼により三省堂『明解国語辞典』の標準アクセント表記を担当する。1942年(昭和17年)、橋本進吉の世話で日華学院に移り、終戦まで中国人に日本語を教える。中国人からの質問には「『知っている』の対義語は何故『知っていない』ではなく『知らない』なのか」など、日本人にはない視点からの問いかけが多く、学問的に大いなる刺激を受けた。1946年(昭和21年)、日華学院の廃校に伴い無職となったため、釘本久春の世話で文部省国語科嘱託となる。しかし、低報酬ゆえに生計立たず、三省堂の常務だった平井四郎に泣きついて『明解古語辞典』の編集の仕事を貰う。1947年(昭和22年)、浦高時代の級友でNHKの館野守男アナウンサーの世話でNHK「ラジオ民衆学校」に出演。同年12月には、NHK「ことばの研究室」の常任講師となる。1948年(昭和23年)、秋山雪雄の世話でNHKアナウンサー養成所講師に就任。書き言葉中心だった旧来の国語学に対し、話し言葉中心の国語学を構想する契機となる。1949年(昭和24年)、NHKアクセント辞典改訂に外部委員として参加。1950年(昭和25年)、自ら監修に携わった三省堂の中学国語教科書『中等国語』が全国一の売上を記録する。1953年(昭和28年)、三省堂『明解古語辞典』を完成。1954年(昭和29年)、国語学会の幹事に就任。1956年(昭和31年)、言語学研究会設立総会で評議員に選出された。1957年(昭和32年)、岩波新書から『日本語』を刊行。135万部を売り上げるベストセラーを記録した。1959年、時枝誠記が東京大学国語学助教授として春彦より3級下の松村明を採用。かねてより抱いていた東大教授になる夢が潰れ落胆する。同年、東京外国語大学の助教授に就任。1961年(昭和36年)、言語学と邦楽学の双方にわたる内容の博士論文『四座講式の研究』を東京大学に提出。明恵上人作詞作曲と伝える声明の一曲「四座講式」を手がかりに、鎌倉時代の日本語のアクセントを論じたこの論文で、翌年に東京大学から文学博士号を授与される。1963年(昭和38年)、吉展ちゃん誘拐事件が発生。自宅のテレビで犯人の身代金要求電話の録音を聴き、何気なく「この発音は茨城か栃木か福島だよ」と呟いたところ、夫人がNHKに電話しこの発言を伝えたため、マスコミから正式に取材を受けることになった。その後、逮捕された犯人が茨城県と栃木県に境を接する福島県南部の出身だったため、春彦の的確な分析が話題を呼んだ。1964年(昭和39年)、『四座講式の研究』が契機となってポリドールから出した真言宗の仏教音楽のレコード『真言声明』で日本レコード部門芸術大賞を受賞。1968年(昭和43年)、学園紛争のさなかに「テレビには出るが、大衆団交には一切出なかった」ことを左翼系学生たちから糾弾されたことで辞表を提出。このときは不受理となった。学生運動はますます活発化し、翌年には多くの大学が妨害攻勢のため入学試験の実施を中止する中、東京外国語大学の入試を遂行すべく奮闘した。1970年(昭和45年)、辞表を再提出。今度は受理され、東京外国語大学を定年前に退職する。1975年(昭和50年)、平曲の研究家として平家琵琶の譜の読み方、奏法、歴史などを解明したことが認められ、日本琵琶学協会の会長に就任。1977年(昭和52年)、紫綬褒章を受章。同年、日本放送協会放送文化賞を受賞。1982年(昭和57年)、国語学会代表理事に就任。1983年(昭和58年)、師である本居長世の伝記『十五夜お月さん』で文部大臣賞を受賞。同年、毎日出版文化賞を受賞する。1986年(昭和61年)、勲三等旭日中綬章を受章。1997年(平成9年)には文化功労者に選ばれた。2004年(平成16年)5月16日、山梨県内の八ケ岳山麓にある別荘で倒れ、甲府市の病院に緊急入院。19日午前11時10分、クモ膜下出血のため死去した。享年91。没後、瑞宝重光章が追贈された。
日本語の方言におけるアクセント研究で知られる金田一春彦。学者とは思えぬ温厚な人柄と柔和な語り口調でお茶の間にも広く愛された。「笑っていいとも!」にレギュラー出演したり、「題名のない音楽会」に出て浦和高校の寮歌を歌う学者なんて、後にも先にもこの人ぐらいだろう。言語学の権威でありながら、その特異なキャラクターでバラエティー番組に引っ張りだこだった金田一先生。とある番組に出演した際、ら抜き言葉について聞かれた先生は「言葉は絶えず時代と共に変化するものですから、ら抜き言葉はなくならないし、ら抜きに進んでいくのが自然な流れでしょう」とコメント。新しい日本語に寛容的で、現代の風潮に迎合するその姿勢が広く支持されたのだろうと深く感心させられた。言葉と音楽を自由に行き来した金田一春彦の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「金田一家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「春光院細雨鳩鳴大居士」。