人気ブログランキング | 話題のタグを見る

金田一京助(1882~1971)

金田一京助(1882~1971)_f0368298_14353595.jpg

金田一 京助(きんだいち きょうすけ)

国語学者
1882年(明治15年)~1971年(昭和46年)


1882年(明治15年)、岩手県盛岡市四ツ家町に生まれる。幼少期、父は子供たちを寝かしつける時に『源平盛衰記』『平家物語』を語って聞かせ、やがて京助は金田一本家の文庫蔵に通い『三国志』『史記評林』『項羽本紀』などを読みふけるようになる。1896年(明治29年)、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に入学。在学時に島崎藤村の『若菜集』に影響を受け、親友の石川啄木と短歌の回覧誌『白羊』を出版。また、花明と号して短歌を詠み、与謝野鉄幹主催の『明星』の同人となる。その後、第二高等学校(現在の東北大学)を経て、1904年(明治37年)東京帝国大学文科大学に入学。新村出や上田万年の講義に魅かれ、言語学科に進学した。上田は「日本語研究のためにも周辺の諸言語の研究が必要」であることを提唱。「アイヌは日本にしか住んでいないのだから、アイヌ語研究は世界に対する日本の学者の責任」と述べ、アイヌ語研究に日本人研究者がいないことを嘆いた。この話を聴いた京助はアイヌ語に興味を持ち、欧米文化万能の時代に旧弊として顧みられなかったアイヌ語を研究テーマに選ぶ。1906年(明治39年)、初めて北海道に渡り、アイヌ語の採集を行う。1907年(明治40年)にはサハリンのオチョポッカで樺太アイヌ語の調査を行い、アイヌの子供たちを通じて樺太アイヌ語を教わった。そして、40日の滞在で文法や4000の語彙の採集に成功し、アイヌ語の道を進むことを決意する。調査報告を上田に提出したのは10月のことであり、すでに大学の卒業式は終わっていた。1908年(明治41年)、海城中学校に国語教師として赴任。しかし、言語学科出身の京助に教員資格がないことが判明し失職する。その後、恩師である金沢庄三郎の紹介で三省堂に就職。また、國學院大学の非常勤講師となった。1912年(明治45年)、処女作『新言語学』を出版。9月には三省堂が倒産し、京助はまたも失職する。10月、東京の上野公園で拓殖博覧会が開催され。京助は来場者に日本の少数民族のあいさつや日常語を教えるアルバイトをしながら、参加していた樺太アイヌたちに聞き取り調査を行い、サハリンで採集したユーカラ「ハウキ」などに訳注をつけることができた。ここで出会った日高のシウンコツ村の鍋沢コポアヌからユーカラの中でも長大な「虎杖丸の曲(クズネシリカ、クトネシリカ)」の存在と、それを語れるユーカラ名人のワカルパを教えられる。1913年(大正2年)、京助はワカルパを東京に呼び寄せる。約1か月の滞在中に14篇の2万行の詞曲と10冊1千ページにのぼる口述を筆録した。1918年(大正7年)、北海道調査旅行中に知里幸恵と知り合う。「ユーカラは値打ちのあるものなのか」と問う幸恵に京助は貴重な文学だと熱っぽく説き、アイヌ語と日本語に堪能な幸恵にノートを送ってユーカラのローマ字筆録を勧めた。幸恵は持病の心臓病が思わしくなかったが、1922年(大正11年)に上京し、京助宅に寄寓。カムイユカラをアイヌ語から日本語に翻訳された幸恵のノートをもとに『アイヌ神謡集』出版の話が進み、。京助は今までわからなかったアイヌ語の文法を幸恵に解説してもらった。幸恵は『アイヌ神謡集』を書き上げ、9月18日に19歳3か月の短い生涯を閉じた。1923年(大正12年)、ワカルパから聞いた「虎杖丸の曲」の調査でヌッキベツのユーカラ名人黒川ツナレを訪ねる。しかし、ツナレは危篤状態で床についており、家族から面会を断られる。京助は何度も頼み込み、見舞いだけならと通される。ツナレと対面した京助はアイヌ語でツナレを称える挨拶をすると、ツナレは天井から吊るした帯につかまって体を起こし「虎杖丸の曲」を語ったが、京助の強引な手法はのちに厳しく批判された。1926年(大正15年)、 大正大学の専任講師に就任。1928年(昭和3年)、東京帝国大学の助教授に就任。1931年(昭和6年)、『ユーカラの研究:アイヌ叙事詩』I・IIを刊行。当初はこれまでのユーカラ研究を欧文の博士論文として帝国大学へ提出したが、審査の適任者を欠くまま大学附属図書館に置かれているうち、関東大震災で焼失。これを惜しんだ柳田國男が、懇意にしていた岡書院の岡茂雄に助力を依頼し、岡の励ましと協力によって金田一が邦文で新たに書き直した。岡の斡旋により、渋沢敬三からは毎月50円、出版の際は東洋文庫からも研究費が金田一に届けられ、2巻合わせて1458ページの大著が出来上がり、1932年(昭和7年)には学士院恩賜賞を受賞した。1935年(昭和10年)頃からは国語学の研究にも関心が及び、『辞海』『明解国語辞典』『新選国語辞典』等の辞典の編纂や、『中等国語』『高等国語』などの教科書の編修も広く行った。戦後になると、三省堂から新しい教科書指定にあわせて国語の教科書をつくるにあたっての執筆依頼が届き、『中等国語 金田一京助編』を発刊。本作は発刊から10数年にわたって採択数トップとなり、国語教科書の代表となった。1952年(昭和27年)、文部省国語審議会委員に就任。敬語や現代仮名遣いの整理に尽力した。1954年(昭和29年)、文化勲章を受章。晩年は筆録したユーカラのノートの和訳注解の仕事に専念。これらは、1959年(昭和34年)から『アイヌ叙事詩ユーカラ集』として刊行された。1971年(昭和46年)8月頃から床に就くことが増え、11月7日の朝に容態が悪化。14日午後8時、老衰のため死去。享年89。


金田一京助(1882~1971)_f0368298_14480587.jpg

金田一京助(1882~1971)_f0368298_14480232.jpg

アイヌ文化の普及に大きな役割を果たした金田一京助。忘れ去られようとしていたアイヌ語にいち早く着目し、着物を質に入れてまでアイヌ語の研究に情熱を傾けた。生涯をアイヌ語の研究に捧げた偉大な学者という評価がある一方、その調査方法や過去の言動から彼の学知の質を問う評価が近年出てきている。しかし、京助がいなければアイヌ語は残らなかったであろう。その功績だけは決して忘れてはいけないと思う。消えゆくアイヌの言葉と文化の研究に生涯をかけた金田一京助の墓は、東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園にある。当初は本郷の喜福寺に埋葬されたが、後にこの雑司ヶ谷の地に移された。墓には「金田一家之墓」と彫られている。戒名は「寿徳院殿徹言花明大居士」。右側に生前詠んだ短歌と、長男の春彦が京助の功績を讃えた墓誌が建つ。その内容は以下の通り。

 道のべに咲くやこの花 花にだに えにしなくして わが逢ふべしや 花明
 一世ノ碩字金田一京助ノ霊コノ下ニ眠ル 京助ハ言語
 学者ニシテ特ニあいぬ語ニ精シク、あいぬ叙事詩ゆう
 からヲ発見シテ世ニ伝エ マタあいぬ語文法ノ大要ヲ諦ム
 前人未到ノ業績ニシテ タメニ文学博士恩寵賞ヲ受ク
 昭和四十六年十一月十四日 老衰ヲ以テコノ地ニ生ヲ
 卒ウ 宮中ヨリ勲一等瑞宝章ヲ賜ワリ従三位ヲ贈ラル
 一介ノ学者トシテ破格ノ待遇ト言ウベシ 京助マタ
 花明ト号シテ学究ノ余暇ヲ短歌ニ親シム 某年朧月小春
 日和ノ東京西郊ニ杖ヲ引キ茅屋ノ農家ノ庭先ニ一株ノ
 桜ノ時ナラヌニ満開セルヲ見ル スナワチ感ヲ催シテ
 右ノ詠アリ ココニ録シテソノ風ヲ懐シム
  昭和四十七年二月二十一日 不肖春彦 撰文建碑


by oku-taka | 2017-09-17 20:07 | 学者 | Comments(0)