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手塚治虫(1928~1989)

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手塚 治虫(てづか おさむ)

漫画家
1928年(昭和3年)~1989年(平成元年)


1928年(昭和3年)、大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に生まれる。本名は、手塚 治。1933年(昭和8年)、一家は兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)に移住。父は宝塚ホテルの中に作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき父に連れられて宝塚ホテルのレストランで食事をして、母には宝塚少女歌劇団に連れて行ってもらっていた。また、幼少期より独自の漫画を描いており、田河水泡『のらくろ』、横山隆一『フクちゃん』の模写をして過ごした。7歳のとき、謝花凡太郎によるミッキーマウスの海賊版単行本に夢中になり、この本の模写をするようになる。9歳のときにはディズニーのアニメーションに出会い、以来ディズニーのアニメーションに心酔する。1935年(昭和10年)、池田師範附属小学校(現在の大阪教育大学附属池田小学校)に入学。小学校3年のとき、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させると、その後漫画の練習に取り組み、小学5年生の頃には長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の教師の間でも話題になるほどであった。この時期に同級生の石原実(後の大阪淀屋橋石原時計店社長)と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫や科学、天文学に興味を持つ。友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読んで甲虫のオサムシの存在を知り、それにちなんだペンネーム「手塚治虫」をこの時期より使い始めた。1941年(昭和16年)、大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)に入学。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。1945年(昭和20年)、戦時中の修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。旧制浪速高等学校を受験したものの、漫画ばかり描いていたため不合格となった。その後、勤労奉仕で監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭遇し、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に自伝的作品の中にその様子が描かれている。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった。終戦後、隣に住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現在の毎日小学生新聞)学芸部の程野と出会う。彼からの依頼を受け、『少国民新聞』大阪版に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』の連載を開始し、漫画家デビューを果たす。続けて『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載し、これらと平行して4コマ形式の連載長編作品を多数発表。1946年(昭和21年)、同人誌『まんがマン』の例会を通じて後見役の酒井七馬と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の合作の話を持ちかけられる。これは戦後初の豪華本の企画でもあり、大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くという形で200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作された。翌年1月に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを起こした。1947年(昭和22年)、子供向けを意識した『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などを発表。翌年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行なわれた。1949年(昭和24年)に発表した西部劇『拳銃天使』では児童漫画で初のキスシーンを描き、1950年(昭和25年)には文豪ゲーテの『ファウスト』を漫画化するなど、様々な試みに挑戦していく。1951年(昭和26年)、大阪帝国大学(現在の大阪大学)附属医学専門部を卒業。さらに大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1952年(昭和27年)3月に第十二回医師国家試験に合格。しかし、教授からは医者になるよりも漫画家になるようにと忠告され、母の後押しもあって手塚は専業漫画家の道を歩むことを決める。その後、東京への持ち込みも行うようになり、新生閣という出版社で持ち込みが成功。ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に「タイガー博士の珍旅行」を連載。同年11月より雑誌『漫画少年』にて『ジャングル大帝』の連載を開始した。1951年(昭和26年)には雑誌『少年』に『鉄腕アトム』の前身となる『アトム大使』を連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には目ぼしい少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画が開始されることになった。1952年、上京。翌年には『漫画少年』からの紹介で豊島区のトキワ荘に入居。その後、手塚に続いて寺田ヒロオ、藤子不二雄が入居。手塚は自分の部屋である14号室を藤子不二雄の二人に譲り転居したが、その後も石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)、赤塚不二夫らが続々と入居し、トキワ荘は漫画家の一大メッカとなった。1953年(昭和28年)、雑誌『少女クラブ』にて『リボンの騎士』の連載を開始。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった。1954年(昭和29年)、『ジャングル大帝』の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始。『火の鳥』はその後幾度も中断しながら長年描き継がれた手塚のライフワークとなった。1955年(昭和30年)、大人向けの漫画雑誌『漫画読本』に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表。これまでの子供向けの丸っこい絵柄とは違った大人向けのタッチを試みた。この年から知的興味を全面に出した作品を多く出しており、1956年(昭和31年)にSF短編シリーズ『ライオンブックス』を始めたほか、学習誌に『漫画生物学』『漫画天文学』などの学習漫画を発表。この他にも幼年向け作品や絵物語、小説やエッセイなど漫画家の枠を超えた活動をするようになった。しかし、1958年(昭和33年)頃より社会の闇をストレートに描く劇画が台頭し始め、アシスタントまでが劇画を夢中になって読んでいるのを目の当たりにした手塚はノイローゼに陥り、精神鑑定を受けるほど悩まされる。1961年(昭和36年)、手塚プロダクションに動画部を設立。スタッフの給料から制作費まですべてを手塚の描いた漫画の原稿料で賄い、1年をかけて40分のカラー長編アニメーション作品『ある街角の物語』を制作した。この作品でブルーリボン賞や文部省芸術祭奨励賞など数々の賞を受賞。動画部は翌年から「虫プロダクション」と改名し、日本初となる30分枠のテレビアニメーションシリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かった。しかし総勢10名にも満たないスタッフではディズニーのようなフルアニメーション番組を毎週テレビ放送用に制作することは作業の量から不可能であり、絵の枚数を大幅に削減するリミテッドアニメの手法を必要に迫られて編み出すに至った。毎週放送のアニメーション番組を実現するために試行錯誤と創意工夫を積み重ねて作り出したさまざまなリミテッド・アニメの手法や様式は、その後の日本のアニメーション制作全般に大きな影響を与えることとなる。虫プロの鉄腕アトムは、当時の日本のテレビアニメーションを代表する大人気作品になった。1966年(昭和41年)、実験漫画雑誌『COM』を創刊。先行した白土三平の劇画作品『カムイ伝』を看板作品とする『ガロ』に対抗したもので、手塚の『火の鳥』を目玉として、石森章太郎や永島慎二などの意欲的な作品が掲載された。1967年(昭和42年)、当時水木しげるによって引き起こされていた妖怪ブームを意識した作品『どろろ』を『少年サンデー』に連載。同年、アニメ『ジャングル大帝』で第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞した。1968年(昭和43年)には青年誌『ビッグコミック』、『プレイコミック』などが相次いで創刊し、青年漫画が本格的にスタート。手塚も『ビッグコミック』に『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』、『プレイコミック』に『空気の底』シリーズなど青年向けの作品を手がけた。一方少年誌では『ファウスト』を日本を舞台に翻案した『百物語』、永井豪『ハレンチ学園』のヒットを受け「性教育マンガ」と銘打たれた『やけっぱちのマリア』(週刊少年チャンピオン)、『アポロの歌』(週刊少年キング)などを発表しているが、この時期には手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていた。さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年(昭和48年)には自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクションが倒産。推定1億5000万円の借金を背負うことになった。同年、『週刊少年チャンピオン』で『ブラック・ジャック』の連載が開始。連綿と続く戦いで読み手を惹き付けようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の毎回読み切り形式での連載は新鮮であり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった。1974年(昭和49年)には『週刊少年マガジン』で『三つ目がとおる』の連載がスタートし、同作の人気によって本格的な復活を遂げた。1976年以降になると、漫画文庫本ブームによって手塚の過去の作品も続々と再刊されるようになり、さらに同年6月からの講談社『手塚治虫漫画全集』刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」「漫画の神様」という評価を確かなものにしていった。1980年代になると、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』や、アドルフ・ヒトラーを題材に一般週刊誌で連載された『アドルフに告ぐ』など、青年漫画の新たな代表作を手がける。しかし、1988年(昭和63年)3月に胃を壊し、一度目の手術を受ける。5月に退院し、以前とまったく変わらない多作振りを見せたが、同年11月に中華人民共和国上海市でのアニメーションフェスティバルに出席した後に倒れ、帰国と同時に半蔵門病院に入院。スキルス性胃癌と発覚したが、当時の日本の医療の慣習により、直接本人には告知されなかった。1989年(平成元年)1月21日、手塚プロ社長の松谷孝征が見舞に来た時には「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んだ。胃癌ということは伏せたうえで聞いた事を話すと「そうか…」と一言言った。100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は、病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。同年1月25日以降、昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言った。死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心を無くさなかった。1989年(平成元年)2月9日午前10時50分、胃癌のため入院先の半蔵門病院で死去。享年60。最期の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ」であった。没後、勲三等瑞宝章が追贈された。


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「漫画の神様」と呼ばれ、今なお多くの国民から支持され続けている偉人・手塚治虫。私も小学生時代は大変お世話になり、昼休みに図書室へ行って『ブラック・ジャック』を読み耽ったことが懐かしく思い出される。手塚治虫というカリスマは、漫画界に大きな足跡を残したのみならず、日本のアニメーション界においても礎を築き、後進にも強い影響力を与えるなど、日本を世界一の漫画・アニメ生産国に押し上げた最大の功労者である。その仕事量は尋常ではないレベルであり、これが原因で寿命を縮めたのではないかと思ってしまう。それだけ漫画に対する情熱が強かったという証拠なのかもしれないが、もう少し自分の体を労わってほしかったというのが正直な感想だ。生涯に700作品、実に17万ページにも及ぶ漫画を残した手塚治虫の墓は、東京都豊島区の總禅寺にある。墓には「手塚累世墓」と彫られている。左側には、火の鳥、アトム、リボンの騎士、ブラックジャック、ジャングル大帝、お茶の水博士、ヒゲオヤジ、手塚本人とサインのレリーフが埋め込まれた庵治石の石碑が建立されている。右側には『陽だまりの樹』のモデルとなった曾祖父・手塚良仙の墓が建つ。墓誌はない。戒名は「伯藝院殿覚圓蟲聖大居士」。なお手塚家の菩提寺は、普段は檀家のみ入所が許されているお寺であるので注意されたい。ただし、受付で手塚治虫のお墓参りに来た旨を伝えれば基本的に参拝の許可を頂ける(線香代として100円入用)。

by oku-taka | 2017-09-17 01:29 | 漫画家 | Comments(0)