2017年 09月 16日
芥川也寸志(1925~1989)
芥川 也寸志(あくたがわ やすし)
作曲家
1925年(大正14年)~1989年(平成元年)
1925年(大正14年)、作家・芥川龍之介の三男として東京市滝野川区(現在の北区)田端に生まれる。1927年(昭和2年)に父が自殺。也寸志は父の遺品であるSPレコードを愛聴し、とりわけストラヴィンスキーに傾倒した。兄弟で毎日『火の鳥』や『ペトルーシュカ』などを聴きながら遊び、早くも幼稚園の頃には『火の鳥』の「子守唄」を口ずさんでいた。絵本の詩を即興で作曲することもあったが、当時はまだ五線譜を知らなかった為、自己流の記譜法で書きとめた。1932年(昭和7年)、東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)に入学。在学中は唱歌が苦手だったために、音楽の成績は通知表の中で最も劣っていた。1941年(昭和16年)、東京高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)在学時に初めて音楽を志し、橋本國彦の紹介で井口基成に師事してバイエルから猛勉強を開始する。しかし、このときに無理が祟って肋膜炎を患ってしまう。1943年(昭和18年)、東京音楽学校予科作曲部に合格。このとき、当時の校長・乗杉嘉壽から呼び出しを受け、受験者全員の入試の成績一覧表を示されて「お前は最下位の成績で辛うじて受かったに過ぎない。大芸術家の倅として、恥ずかしく思え!」と叱責され、衝撃を受けた。在学中は音楽をより専門的に学び、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、下総皖一と細川碧に対位法を学ぶ。1944年(昭和19年)、学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊し、テナーサックスを担当する。1945年(昭和20年)、軍楽隊を首席で卒業。8月に戦争が終わって東京音楽学校に戻ったとき、戦後の人事刷新で作曲科講師に迎えられた伊福部昭と出会い、決定的な影響を受ける。また、当時の進駐軍向けラジオ放送でソ連音楽界の充実ぶりを知り、ソ連の音楽が作風に大きな影響を及ぼす。1947年(昭和22年)、東京音楽学校本科を首席で卒業。同年、伊福部が初めて音楽を担当した映画『銀嶺の果て』で、ピアノ演奏を担当。1948年(昭和23年)、管弦楽曲『交響三章』を完成させ、話題となる。同年、東京音楽学校で知り合った山田紗織と結婚。二女をもうけたが、9年後に離婚している。1949年(昭和24年)、東京音楽学校研究科を卒業し、慶応義塾中等部の音楽教員となる。1950年(昭和25年)、『交響管絃楽のための音楽』がNHK放送25周年記念懸賞募集管弦楽曲に特賞入賞する。同曲は近衛秀麿指揮の日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)により初演され、作曲家・芥川也寸志の名は一躍脚光を浴びた。1953年(昭和28年)、同じく若手作曲家である黛敏郎、團伊玖磨と共に「三人の会」を結成。作曲者が主催してオーケストラ作品を主体とする自作を発表するという、独自の形式によるコンサートを東京と大阪で5回開催した。同年、初めて担当した映画『煙突の見える場所』の音楽で、第4回ブルーリボン賞音楽賞、第8回毎日映画コンクール音楽賞を受賞。1954年(昭和29年)、当時まだ日本と国交がなかったソ連に、自作を携えて単身で密入国する。ソ連政府から歓迎を受け、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーの知遇を得て、自分の作品の演奏、出版にまでこぎつけ、当時のソ連で楽譜が公に出版された唯一の日本人作曲家となった。帰国後は、オーケストラ作品を中心に幅広いジャンルの作品を次々と発表し、戦後の日本音楽界をリードする存在となった。1953年(昭和28年)、『祖国の山河に』を作曲し、当時広まりつつあった「うたごえ運動」の指導者として活躍。1956年(昭和31年)、アマチュア演奏家たちの情熱に打たれ新交響楽団を結成。以後、無給の指揮者としてこのアマチュアオーケストラの育成にあたった。1957年(昭和32年)、ヨーロッパ旅行の帰途に立ち寄ったインドのエローラ石窟院カイラーサナータ寺院で、巨大な岩を刳り貫いて造られた魔術的空間に衝撃を受け、このときの感動から代表作『エローラ交響曲』を作曲。この頃から、動的な作風の代わりに静謐な作風を模索するようになる。1960年(昭和35年)、女優の草笛光子と再婚。しかし、草笛が芥川の連れ子と不仲だったことから1年9ヶ月で離婚となった。1967年(昭和42年)、芥川を中心にアマチュア合唱団「鯨」が創立する。この頃になるとメディアにも積極的に出演し、同年よりスタートしたTBSラジオ『百万人の音楽』では、死の前年まで野際陽子とパーソナリティーを務めた。1976年(昭和51年)、「1940年代の日本人作曲家の作品のみ」という当時としては画期的なコンサートを2晩にわたり行い、その功績を讃えられ、翌年には鳥居音楽賞(後のサントリー音楽賞)を受賞した。同年、日本音楽著作権協会 (JASRAC) の理事長に就任。父の印税が途絶えたために非常に苦しい生活を強いられたという自身の経験から、音楽使用料規定の改定に尽力し、徴収料金倍増などの功績を上げた。1977年(昭和52年)、NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子とともに出演。ダンディな容貌と明晰な話し方でお茶の間の支持を集めた。1978年(昭和53年)、第1回日本アカデミー賞で『八甲田山』と『八つ墓村』が最優秀音楽賞と優秀音楽賞を受賞した。1984年(昭和59年)からは西洋史の木村尚三郎、作詞家のなかにし礼との3人でNHKの音楽番組『N響アワー』の司会を担当したが、1988年(昭和63年)に肺癌が発覚。6月の手術成功後は軽井沢で静養しながら合唱曲『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の作曲を続けるが、11月に再び入院。曲の完成の遅れを気にかけた芥川は、作曲家仲間の松村禎三と黛敏郎に相談し、新進作曲家であった鈴木行一に残りのオーケストラの補作を依頼。 1989年(平成元年)1月31日、東京都中央区の国立がんセンターで肺癌のため死去。享年63。最後の言葉は「ブラームスの一番を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だった。遺作となった『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』は、5月2日に東京・サントリーホールで開催された「芥川也寸志追悼演奏会」で初演された。没後、勲二等瑞宝章授章を追贈された。


時に荘厳、時にリズミカル、しかし一貫して力強さと気品さを失わないメロディーライン。芥川也寸志という作曲家は、メロディーを自由自在に操る魔術師のような音楽家だった。その特徴は、1964年(昭和39年)放送の大河ドラマ『赤穂浪士』、映画『八甲田山』のテーマによく表れている。作曲家、指揮者、教育者、JASRACの理事長、テレビ番組の司会と、まさに八面六臂の活躍をした芥川也寸志。親友の黛敏郎は「芥川也寸志の最後は壮烈な文化への戦死だった」との言葉を残し、音楽に殉じた友の死を悼んだ。63年の生涯を音楽に捧げた作曲家の墓は、東京都豊島区の慈眼寺にある。同墓地には、父・芥川龍之介、兄・芥川比呂志の墓もあるが、也寸志の墓は二人の墓から少し離れた区画に建立されている。墓には「芥川家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「揮心院聚楽日靖居士」