2017年 09月 16日
芥川比呂志(1920~1981)

芥川 比呂志(あくたがわ ひろし)
俳優・演出家
1920年(大正9年)~1981年(昭和56年)
1920年(大正9年)、作家・芥川龍之介の長男として東京府東京市滝野川区(現在の東京都北区)田端に生まれる。1932年(昭和7年)、東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。在学中からシングや岸田國士の戯曲を読み、15歳のとき『お察しください(A Comedy)』と題する戯曲を校友会誌「桐陰会雑誌」に発表。学芸会では『ヴェニスの商人』や武者小路実篤の芝居を演じる。1937年(昭和12年)、慶應義塾大学予科に入学。1939年(昭和14年)には文学部仏文科に進学し、女優の長岡輝子や劇作家の加藤道夫たちと新演劇研究会を結成。学生演劇活動を始めた傍ら、鈴木亨主宰の詩誌『山の樹』の同人となり、畔柳茂夫や沖廣一郎という筆名で詩や翻訳を発表。佐佐木茂索の配慮により、嘱託として短期間文藝春秋社に勤務した。その後、太平洋戦争勃発のため慶應義塾大学を繰上卒業し、甲種幹部候補生として群馬県の前橋陸軍予備士官学校(赤城隊)に入校。1945年(昭和20年)、神奈川県藤沢市鵠沼の母の実家別荘に疎開していた家族の許に復員した。鵠沼では林達夫らと交流し、1946年(昭和21年)に林の主宰する市民向け教養講座「鵠沼夏期自由大学」でチェーホフの『熊』を上演し、演劇活動を再開した。1947年(昭和22年)、長岡輝子、加藤道夫、加藤治子らと共に「麦の会」を結成。1949年(昭和24年)には文学座に合流し、以来文学座の中心俳優として活躍した。特に1955年(昭和30年)の『ハムレット』の主演は、今なお伝説として演劇史に語り継がれているほどの絶賛を博し、貴公子ハムレットの異名を持った。また、加藤道夫作『なよたけ』の演出を担当し、演出家としても大成する。一方、舞台のみならず、ラジオドラマ、映画、テレビなどにも数多く出演。1953年(昭和28年)には、出演した新東宝映画『煙突の見える場所』で第8回毎日映画コンクール男優助演賞を受賞した。1963年(昭和38年)、仲谷昇、小池朝雄、岸田今日子、神山繁、高木均らと共に文学座を脱退。『ハムレット』の演出を手掛けた福田恆存を理事長とする財団法人「現代演劇協会」を設立し、協会附属の「劇団雲」でリーダーとして活動する。1974年(昭和49年)、『スカパンの悪だくみ』の演出で芸術選奨文部大臣賞、泉鏡花の戯曲『海神別荘』の演出で文化庁芸術祭優秀賞を受賞。やがて盟友であった福田と劇団の運営方針を巡って対立。1975年(昭和50年)には仲谷、岸田、神山、中村伸郎らと雲を離脱し「演劇集団 円」を創立して代表に就任した。しかし、若い頃からの持病である肺結核が悪化して入退院を繰り返し、期待された「円」での仕事は、1978年(昭和53年)の『夜叉ヶ池』演出のみに留まった。1981年(昭和56年)、療養中だった目黒区内の自宅にて死去。享年61。



戦後の新劇界を牽引してきた伝説の俳優・芥川比呂志。文学座の後輩である寺田農や橋爪功、共演した杉浦直樹といった名優たちがこぞって「凄い役者だった」と語っている。残念ながら芥川は生来体が弱かった為に映画やテレビにはほとんど出ておらず、そのカリスマの芝居に触れられる機会が現代では非常に少ない。これは誠に残念な話である。日本人離れした目鼻立ち、エレガントな佇まい、父・芥川龍之介譲りの陰鬱な雰囲気。まさに西洋の芝居を演じるために生まれてきたような芥川比呂志の墓は、東京都豊島区の慈眼寺にある。墓には「芥川家之墓」とあり、右側に墓誌が建つ。左には、父で作家の芥川龍之介の墓が建立されている。戒名は「諦心院法圓日廣居士」