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十代目・金原亭馬生(1928~1982)

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十代目・金原亭馬生(きんげんてい ばしょう)

落語家
1928年(昭和3年)~1982年(昭和57年)


1928年(昭和3年)、五代目古今亭志ん生の長男として、東京市豊多摩郡和田堀町方南(現在の東京都杉並区方南)に生まれる。しかし、出生届の提出が遅れ、かつこの頃転居を繰り返していたことから、出生時についての詳細は諸説ある。本名は、美濃部 清(みのべ きよし)。幼少期は絵を好み、日本画家の鴨下晁湖に弟子入りするほどであったが、家計を助けるため写真会社に勤務。1940年(昭和15年)、旧制私立豊山中学校(現在の日本大学豊山中学校)の定時制に入学したが、程なくして中退。当時の中学生の憧れであった予科練を志し、海軍を志願するも不合格。その後、生来より弱かった体調が悪化し、加えて腸の病気の発見がやや遅れ、駒込の病院で大手術をした。退院すると死生観の変化により予科練志願の心は消え、ある人から「噺家になれば、軍事工場の慰問の仕事があるから徴用に掛からない」と言われた事が契機となって落語家を志望。1942年、父である古今亭志ん生に入門し、四代目・むかし家今松を名乗る。当時は戦争で落語家が足りなかったため、二つ目として落語家人生をスタートさせた。1944年(昭和19年)頃には初代古今亭志ん朝に改名したが、終戦直前に父の志ん生が満州慰問に出てしまったため、戦争末期から敗戦直後の困難な時代に一家の主柱として家族を養う苦労を重ねる。その一方で、古参の落語家たちから稽古をつけてもらい、ネタの数を大幅に増やしていった。1947年(昭和22年)、五代目志ん生が帰国。同年には再び今松を名乗る。1948年(昭和23年)真打に昇進し、五代目・古今亭志ん橋を襲名。1949年(昭和24年)には、十代目金原亭馬生を襲名した。以来、寄席やラジオで活躍したが、父である五代目志ん生からはあまり噺の稽古をつけてもらえなかった。そのため、他の師匠から稽古を受けたり、独流で噺を練り上げたりすることで独自の芸風を磨き続け、三遊派・柳派両派のネタを多く持った。また、人情噺などのじっくり聴かせる噺に本領を発揮し、噺にまつわる歴史や背景を調べ上げるなどリアリズムを追求し、破天荒な芸風の父とは対照的なゆるやかな口調とリズムで独自の芸風を確立した。1969年(昭和44年)、芸術選奨新人賞を受賞。1973年(昭和48年)には文化庁芸術祭優秀賞を受賞した。1978年(昭和53年)、落語協会副会長に就任し、約4年間務めた。私生活では、噺家らしく和服を貫き、書画や俳句をたしなむなど日本風の風格のある生活を送っていた。1980年(昭和55年)、上野本牧亭で独演会「馬生十八番」を毎月1回開催するなど意欲的に活躍していたが、1982年(昭和57年)9月13日、食道癌のため死去。享年54。


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昭和の名人といわれた五代目古今亭志ん生の長男として生まれ、自身も落語家として最上級の評価を欲しいままにして54歳という若さで旅立った十代目金原亭馬生。志ん生の長男として生を受けながらも、父からは満足な稽古をつけてもらえず、「志ん生」の名も長男の馬生ではなく弟の志ん朝に継がせると公言されるなど、何かと不遇なイメージが付き纏う。おそらく本人も複雑な胸中であっただろうと思うが、それをいっさい億尾にも出さず、父・弟とは異なるじっくり聞かせる「静」の芸風を確立したのは実に見事である。個人的に最も好きな落語家であり、彼の「そば清」「笠碁」「目黒のさんま」は絶品である。それだけに、早逝が惜しまれてならない。そんな金原亭馬生の墓は、東京都台東区の長久院にある。長らく、東京都文京区の還国寺に志ん生・志ん朝と共に葬られていたが、2015年(平成27年)に実娘で女優の池波志乃が生前墓を購入したのにあたり、馬生と妻もこの墓に移された。この墓は、娘婿で俳優の中尾彬がデザインし、そこには彼が記した「無」の文字が刻まれている。また、背面には墓誌が刻む。戒名「心光院清誉良観馬生居士」


by oku-taka | 2017-09-15 18:59 | 演芸人 | Comments(0)