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五代目・古今亭志ん生(1890~1973)

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五代目・古今亭志ん生(ここんてい しんしょう)

落語家
1890年(明治23年)~1973年(昭和48年)


1890年(明治23年)、東京市神田区神田亀住町(現在の東京都千代田区外神田)に生まれる。本名は、美濃部 孝蔵(みのべ こうぞう)。幼少期の頃から父に連れられ、寄席で売られるお菓子目当てに寄席通いをして育つ。1897年(明治30年)、下谷尋常小學校に入学。しかし、手のつけられないやんちゃな性格が災いし、1901年(明治34年)卒業間際に素行不良のため退学。その後、奉公に出され、あちこちの奉公先を転々とするも、すぐに逃げ帰った。1905年(明治38年)頃には博打や酒に手を出し、放蕩生活を続けた末に家出。芸事に興味を抱くようになり、天狗連に出入りし始める。1907年(明治40年)、芸事好きが嵩じて落語のセミプロになり、三遊亭圓盛の下で三遊亭盛朝の芸名をもらう。1910年(明治43年)、2代目・三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太との前座名を名乗る。1916年(大正5年)~1917年(大正6年)頃、三遊亭圓菊を名乗り、二つ目になる。1918年(大正7年)、4代目・古今亭志ん生門に移籍し、金原亭馬太郎に改名。1921年(大正10年)、金原亭馬きんを名乗り、真打に昇進する。1924年(大正13年)、3代目・古今亭志ん馬を名乗る。しかし、当時の実力者だった5代目・三升家小勝に楯突いたことで落語界での居場所を失い、講釈師に転身。謝罪して落語家に戻るが一向に食べられず、当時人気者であった柳家金語楼の紹介で初代・柳家三語楼門下に移るが、今度は師匠の羽織を質入れして顔を出せなくなった。その後、詫びがかなって復帰したものの、前座同然の扱いで貧窮極まる。腕はあったが愛嬌がなく、周囲に上手く合わせることもできず、結果として金銭面の苦労を強いられた。この頃は身なりが悪く、「死神」「うわばみの吐き出され」などのあだ名で呼ばれ、仲間内や寄席の関係者から軽んじられていた。寄席でも浅い出番での出演で、場末の寄席を廻ってどうにか糊口を凌いでいたという。1932年(昭和7年)、再び3代目・古今亭志ん馬を名乗る。この頃になってようやく少しずつ売れ始め、1934年(昭和9年) には7代目・金原亭馬生を襲名。1939年(昭和14年)、5代目・古今亭志ん生を襲名した。1941年(昭和16年)、神田花月で月例の独演会を開始。客が大勢詰めかけるほど好評を博す。1945年(昭和20年)、陸軍恤兵部から慰問芸人の取りまとめの命令を受けた松竹演芸部の仕事で、6代目・三遊亭圓生、講釈師の国井紫香(後の2代目・猫遊軒伯知)、坂野比呂志らと共に満州に渡る。満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事を請け負ったがそのまま終戦を迎えて帰国出来なくなり、現地で引き揚げ船の出航を待ちわびながら生死ギリギリの生活を強いられる。1947年(昭和22年)1月12日、命からがら満州から帰国。この帰国がニュースに取り上げられるなど注目され、一気に人気が爆発。寄席だけでなくラジオ番組にも多く出演し、押しも押されもせぬ存在となった。その人気ぶりが故にあちこちで仕事を掛け持ちするため、寄席の出番よりも自分の都合を優先してしまい、周囲からわがままな仕事ぶりを非難されることもあった。1953年(昭和28年)、ラジオ東京の専属となり、翌年にはニッポン放送の専属になる。1956年(昭和31年)、自伝『なめくじ艦隊』を発表。志ん生当人は読むのはまだしも書くのは不得手で、弟子の初代金原亭馬の助による聞き書きで発行となった。同年、『お直し』の口演で芸術祭賞を受賞。1957年(昭和32年)、8代目・桂文楽の後任で落語協会4代目会長に就任した。1961年(昭和36年)暮れ、読売巨人軍優勝祝賀会の余興に呼ばれるが、口演中に脳出血で倒れる。3か月の昏睡状態の後に復帰するも、その後の高座からは以前の破天荒ともいうべき芸風が影を潜めた。療養を経て復帰した志ん生は半身不随となっていたため、講談で使用する釈台を前に置き、釈台に左手を置いて高座を務めた。1964年(昭和39年)、紫綬褒章を受章。同年、小島貞二による聞き書きの自伝『びんぼう自慢』を刊行。1967年(昭和42年)、勲四等瑞宝章を受章。1968年(昭和43年)、上野鈴本演芸場初席に出演。これが最後の寄席出演となった。同年10月9日、精選落語会に出演し、これが最後の高座になる。この時、「二階ぞめき」を演じていたはずが途中で「王子の狐」に変わってしまったことをマネージャーである長女に指摘されて以降高座に上がらなくなったが、当人は引退した気などなく、少し休んでやがて高座に復帰する意志は持っていた。1971年(昭和46年)、苦楽を共にした妻、ライバルにして盟友であった8代目・桂文楽が相次いで死去。志ん生は気落ちし、老衰が目立つようになる。1973年(昭和48年)9月21日、自宅で逝去。享年83。


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没後44年を経た今でもCDやDVDが売れ続けている伝説の落語家、五代目・古今亭志ん生。六代目・三遊亭圓生と共に天才と並び称された落語家だが、芽が出るまで実に16回も改名した苦労の上に掴んだ「天才」である。極貧と破天荒な暮らしで磨いたその芸は、当たりハズレの大きい不安定な芸風として実を結び、客はその豪放磊落さに魅せられた。独特の味わい深さで愛され続けている五代目・古今亭志ん生の墓は、東京都文京区の還国寺にある。墓には「美濃部家之墓」とあり、左横に墓誌が建つ。戒名は「松風院孝誉彩雲志ん生居士」

by oku-taka | 2017-09-09 21:39 | 演芸人 | Comments(0)