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宮澤喜一(1919~2007)

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宮澤 喜一(みやざわ きいち)

政治家
1919年(大正8年)~2007年(平成19年)


1919年(大正8年)、東京府東京市に生まれる(本籍地は広島県福山市)。父は鉄道政務次官、商工省参与などを歴任した政治家の宮澤裕。東京高師附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)、旧制武蔵高等学校(現在の武蔵中学校・高等学校)を経て、1938年(昭和13年)に東京帝国大学(現在の東京大学)法学部政治学科に入学。在学中の1939年(昭和14年)には、第6回日米学生会議に参加するため渡米した。大学卒業後、父と同じ政界入りを志す。外務省か内務省を志望したが、父と公私共に親しかった池田勇人の強い勧めで1942年(昭和17年)に大蔵省へ入省。沼津税務署長などを経て、終戦時には本省で戦争保険を担当した。1945年(昭和20年)8月、東久邇宮内閣が発足すると、大平正芳と共に津島壽一蔵相の秘書官となる。1949年(昭和24年)、語学力を買われ池田勇人蔵相の秘書官に就任。以後、1950年(昭和25年)の池田蔵相訪米、1951年(昭和26年)のサンフランシスコにおける対日講和会議といった講和条約の準備交渉に携わる。同年9月のサンフランシスコ講和会議では全権随員として参加し、ほぼすべての戦後日米交渉に参画した。1952年(昭和27年)、池田通産大臣の「中小企業発言」で不信任されたのに殉じるように、宮澤も大蔵省を退官。しかし、池田の強い勧めで、1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙に広島県選挙区から出馬し当選した。参院議院運営委員長などを経て、1962年(昭和37年)の第2次池田改造内閣で経済企画庁長官として初入閣。池田首相のブレーンの一人として所得倍増政策の一翼を担う。また、テレビの政治討論会などに積極的に出演し、自民党のニュー・ライトを代表する若手政治家として注目される。将来の総理総裁候補として衆議院への鞍替えを要請され、参院議員の任期満了をもってしばらく非議員の立場になるが、1966年(昭和41年)第1次佐藤内閣 (第3次改造)で非議員のまま経済企画庁長官で入閣する。1967年(昭和42年)、衆議院に鞍替えして第31回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、佐藤栄作内閣の経済企画庁長官、通商産業大臣、三木武夫内閣の外務大臣、福田赳夫内閣の経済企画庁長官といった要職を歴任。一方、党内では池田派(宏池会)に所属。1973年(昭和48年)には派閥横断グループ平河会を結成し、座長となる。早くから総裁候補と目され、1974年(昭和49年)にはポスト田中角栄で総裁に推す声が一部で上がった。1977年(昭和52年)には、当時のソニー会長・盛田昭夫らの周旋による政財界団体「自由社会研究会」の結成が宮澤を総裁に推すためのものと取沙汰されたり、1979年(昭和54年)に起きた四十日抗争の収拾策の一つとして宮澤擁立が取沙汰されたりした。1980年(昭和55年)の大平首相急死の後継では本命の一人だったが、当時まだ隠然たる影響力を持っていた田中との関係の悪さがマイナスとなって実現せず、同じ宏池会で田中と近かった鈴木善幸が総裁に就任。鈴木内閣では内閣官房長官を務め、鈴木首相の度々の失言の後始末をこなし、宮澤の実務能力が改めて政界内外に印象付けられた。また、安倍晋太郎・竹下登らと共に「ニュー・リーダー」と称されたグループの一人となり、3人は安竹宮と呼ばれた。派内では、宮澤に対抗意識を燃やす田中六助と「一六戦争」と呼ばれる後継争いを繰り広げ、その過熱が懸念を呼んだことから平河会座長を退いた。田中が病没後、宏池会会長となり派閥を継承し、名実ともに総裁候補となった。1984年(昭和59年)、立正佼成会の会長秘書を騙る男にホテルの一室でナイフを突きつけられる事件が発生。30分にもわたる取っ組み合いの末、額に怪我を負いながらも宮澤一人でその男を取り押さえた。この頃、プラザ合意とその後の急激な円高を巡り、中曽根首相の経済運営を強く批判していた宮澤は、中曾根により大蔵大臣就任を要請され自ら円高是正に奔走することになる。大幅な介入やベーカー財務長官との頻繁な協議にもかかわらず、有効な手を打てぬまま円高は加速した。1987年(昭和62年)、中曽根の後継者の座を安倍・竹下と争ったが、中曽根の裁定により竹下が総裁に就任。宮澤は竹下内閣に副総理兼蔵相として入閣し、消費税導入に尽力した。1988年(昭和63年)、当時のリクルート社会長・江副浩正が、自社の政治的財界的地位を高める目的で有力政治家、官僚、通信業界有力者にリクルート社の子会社であるリクルート・コスモス社の未公開株を譲渡した「リクルート事件」が発覚。宮澤も秘書名義による未公開株購入が発覚し、倫理的責任を問われて大臣を辞任した。1991年(平成3年)、海部俊樹首相の退陣に伴う総裁選挙に出馬し、金丸信の推す渡辺美智雄、竹下の推す三塚博両氏を抑えて当選。72歳にして内閣総理大臣に就任し、参議院議員経験者としては初めての内閣総理大臣の誕生となった。就任直後に取り組んだのは、国連の平和維持活動や人道的な国際救援活動に協力するために自衛隊を紛争国に海外派遣できる「PKO協力法」の成立であったが、自衛隊海外派遣を軍国主義の再来と捉えた日本社会党や日本共産党、社会民主連合などは強硬に反対。徹底した牛歩戦術によって投票を議事妨害したり、社会党衆議院議員137人全員が議員辞職届を出して衆議院解散に追い込む作戦が行われたが、同年12月3日に衆議院本会議で可決された。しかし、1992年(平成4年)の法案成立後に行われた自衛隊カンボジア派遣の過程において、文民警察官と国連ボランティアが殺害された際に「PKO要員の殺害は止むを得ない」と発言し批判を浴びることになった。6月には、政府開発援助(ODA)に関する基本理念や重点事項などを集大成し、ODA大綱を閣議決定。8月、バブル景気崩壊後の金融不安を巡って側近であった浜田卓二郎の進言を容れ、日銀総裁であった三重野康と歩調を合わせて東証閉鎖・日銀特融による公的資金投入というシナリオを密かに模索。しかし、大蔵省の反対により一旦は断念。その後、自民党の軽井沢セミナーで金融機関への公的援助発言をしたことから、官庁、マスコミ、経済団体、金融機関から強い反対に遭い、ついには実行に至らなかった。その結果、宮澤はその決定を取り下げなければいけなくなり、これにより銀行への公的資金投入による不良債権処理はタブーとなってしまった。折からリクルート事件などを巡って高まっていた政治改革の機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指した。1993年(平成5年)、選挙制度改革を含む政治改革関連法案について「この国会でやるんです。うそをついたことはない」と宣言。しかし、自民党内の反対論が強まり、法案成立は困難となった。もともと宮澤自身は必ずしも小選挙区制導入をはじめとする政治改革に積極的ではなかったことから、竹下派から分かれた小沢・羽田グループ(改革フォーラム21)は宮澤に対して反発を強めた。同年6月、宮澤内閣に不信任案が提出され、同案は可決された。自民党は大量の離党者を出したまま総選挙を行うことを余儀なくされ、結果はほぼ現有議席を維持したものの、新生党、新党さきがけなど自民党から離れた議席を回復することができず過半数を大きく割り込む大敗を喫した。これにより、日本新党を中心とした野党勢力が結集して細川護熙政権が誕生。宮澤は自民党長期支配38年、及び55年体制の最後の首相となった。その後は、村山内閣で外相在任中の河野洋平から駐米大使を打診されたが固辞。1996年(平成8年)、初めて小選挙区比例代表並立制で実施された第41回衆議院議員総選挙で、新進党公認の柳田稔との現職対決に圧勝で再選した。1998年(平成10年)、小渕内閣が発足すると、未曾有の経済危機に対処するため小渕恵三首相は宮澤に大蔵大臣就任を要請。宮澤は当初難色を示したものの、小渕の強い熱意の下就任を受諾した。戦前に活躍した高橋是清以来となる異例の総理経験者の蔵相就任となったため、「平成の高橋是清」といわれた。折からの金融危機に対処するため、金融再生関連法・金融健全化法を成立。また、アジア通貨危機にあたっては「新宮澤構想」に基づき300億ドルに及ぶ経済支援を行った。続く森内閣でも蔵相に留任し、初代財務大臣に就任した。小渕・森内閣両期を通じて巨額の恒久的減税の一方で、財源としては大量の赤字国債を一貫して発行し続け、財政赤字は膨大なものとなった。こうした極端な積極財政を主導した結果、2000年(平成12年)のITバブルの崩壊とともに不良債権問題が再燃。森内閣の退陣とともに宮澤も退任した。2003年(平成15年)、小泉純一郎自民党総裁は、衆院比例候補・定年73歳の徹底と「世代交代、若返り」という選挙運動方針を定め、それに則って中曽根・宮澤両元首相に対して、総選挙への立候補断念及び代議士引退を要請した。当初難色を示した宮澤だったが、「総理に恥をかかせちゃいかん」と発言し、引退を受諾した。参院在職12年3ヶ月、衆院在職36年9ヶ月で国会議員在職合計は49年0ヶ月であった。政界引退後は、元首相、戦後政治の証言者として経済や安全保障のご意見番として活躍した。2005年(平成17年)夏に体調を崩し、入院。退院後は容貌が一変するほどに痩せて周囲を心配させたが、その後も活発にテレビ出演などを続けた。2006年(平成18年)7月、自宅で転倒して足を骨折。これ以降、表立った活動を控えた。2007年(平成19年)2月、政界関係者の会合に車椅子姿で参加。スピーチも行うなど元気な姿を見せたが、これが公の場に姿を見せた最後となった。同年6月28日午後1時16分、老衰のため東京都渋谷区神宮前の私邸で死去。享年87。在任期間が1年を超える首相経験者は大勲位菊花大綬章を受勲することが慣例となっているが、本人の意向により勲章等は辞退した。


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49年という長きにわたって政界に君臨した護憲・ハト派の長老・宮澤喜一。戦前からのエリート官僚が戦後に議員となり、その後一貫して保守リベラリストの道を歩み続けた。しかし、パブル崩壊後の金融政策の失敗、従軍慰安婦の謝罪外交と、政治家としての手腕には疑問を感じることが非常に多い。この他にも、徹底した学歴主義で人を判断、酒による放言癖など、あまり良い評価を聞かない。どこまでが本当かはわからないが、こうした人望の無さが総理大臣になかなか就任できなかった要因なのかもしれない。やはり、首相になるのがあまりに遅すぎた。政策通・経済通・英語通のキレ者として注目されていた昭和の半ば頃に総理大臣に就いていれば、まだ違った政策が展開できたかもしれない。いや、政治家にはならず有能な官僚のまま政治評論家に転身していたならば、評価がまるっきり違っていただろう。宮澤喜一の墓は、東京都港区の青山霊園にある。墓には「宮澤家之墓」とあり、裏側に墓誌が刻む。戒名はない。

by oku-taka | 2017-09-09 18:55 | 政治家・外交官 | Comments(0)