2017年 09月 01日
小沢昭一(1929~2012)
小沢 昭一(おざわ しょういち)
俳優
1929年(昭和4年)~2012年(平成24年)
1929年(昭和4年)、東京府豊多摩郡和田堀町大字和泉(現在の世田谷区大原)に生まれる。2歳の頃、父親が写真館を始めたため日暮里へ引っ越し、4歳のときに蒲田に移り住む。当時の蒲田は松竹映画の撮影所や寄席などがあるモダンな街で、その猥雑な雰囲気が小沢の後の活動に影響を与えた。その後、府立一中を受験するも失敗。1942年(昭和17年)、旧制麻布中学に入学し、大西信行、加藤武、フランキー堺、仲谷昇といった後に演劇界を共に盛り上げる多くの友人を得る。学生時代は天狗連として彼らとしばしば落語を披露し合い、通学帰りにはネタを増やすべく人形町末廣、神楽坂演芸場、銀座金春亭など禁演落語の時節真っ只中の寄席に入り浸った。そこで出会った演芸評論家・作家の正岡容の知遇を得て弟子になる。また、大西、加藤らと麻布中で演劇部を立ち上げた。1945年(昭和20年)、海軍兵学校第78期生として入校するが、終戦のために退校。そこで見た一面の焼け野原と、戦時中とは一転した論調が蔓延る終戦体験が大きな影響を与えた。その後、麻布中学に復学し、早稲田大学文学部仏文科に進学。在学中、大西、加藤らと共に、日本で初めての学校での落語研究会を創設。名称は「寄席文化研究会」としたかったが、大学に認めてもらえず「庶民文化研究会」とした。一方、北村和夫らと演劇活動を始め、1949年(昭和24年)には俳優座付属俳優養成所の二期生となり、千田是也に師事する。1951年(昭和26年)、早稲田大学文学部仏文科を卒業。同年、岸田国士作『椎茸と雄弁』で初舞台を踏む。1953年(昭和28年)、同養成所卒業と同時に渡辺美佐子らと劇団新人会を結成。1954年(昭和29年)、早稲田の同窓である今村昌平の紹介で、渋谷実監督『勲章』で映画デビュー。その後、今村が日活に移籍したのをきっかけに自身も日活と専属契約。翌年、川島雄三監督『愛のお荷物』に出演したのを皮切りに、『洲崎パラダイス赤信号』、『幕末太陽傳』と川島雄三監督作品に立て続けに起用され、脇役ながらその存在感を示した。1960年(昭和35年)、演出家の早野寿郎と「劇団俳優小劇場」を結成。以降も舞台、ラジオ番組、映画、テレビ番組など幅広く活動し、1966年(昭和41年)には今村昌平監督『エロ事師たちより 人類学入門』で「キネマ旬報」主演俳優賞、「毎日映画コンクール」男優主演賞を受賞した。同年、新劇寄席『とら』で芸術祭奨励賞を受賞。1969年(昭和44年)、それまでの新劇を基点とした活動に限界を感じ、「芸能の原点」を求めるようになる。幼少期より好きだった落語、演芸、話芸、雑芸のみならず、日本の伝統的な民衆芸能に強い関心を持ち、著書『私は河原乞食・考』を刊行。また、早稲田大学演劇科の大学院に特別入学し、郡司正勝教授のもとに5年間通って芸能史の研究を行う。その後、放浪芸の収集、発掘に深い関心を寄せ、記録、保存、著述、実践を行うようになる。1971年(昭和46年)には全国を廻って収集した音源を元に制作したレコード『日本の放浪芸』LP7枚組を発売し、第13回日本レコード大賞企画賞を受賞した。1974年(昭和49年)、続編の『又・日本の放浪芸』を発売し、芸術選奨新人賞を受賞。以降も次々と続編を制作し、芸能研究の実践活動に勤しむ。1973年(昭和48年)、TBSラジオで『小沢昭一の小沢昭一的こころ』が放送開始。小沢が“口演”と称し、週代わりのテーマ(「○○について考える」)に沿って、時事問題から下ネタまで幅広いテーマを軽妙な話術で物語る内容で多くのファンを獲得し、以降39年にわたり放送された。1974年(昭和49年)、野坂昭如、永六輔と「中年御三家」を結成。同年に開催された武道館でのコンサートは、ビートルズ以来と言われるほどの大盛況となった。1975年(昭和50年)、加藤武、山口崇、山谷初男らと劇団「芸能座」を旗揚げし、1980年(昭和55年)までその活動は続いた。また、「あたらしい芸能研究室」(出版部門)を創設し、研究誌「季刊藝能東西」を創刊。「藝能東西」以外にも芸能関係の書籍を多数刊行し、時代と共に消え行く伝統芸能やストリップなどの猥雑な諸芸能を取材・研究した本を刊行する。1982年(昭和57年)、俳優が小沢一人の劇団「しゃぼん玉座」を創設し、引退興行と称して井上ひさし原作『唐来参和』の一人芝居を18年間各地で行い、公演数は660回に上った。1994年(平成6年)、紫綬褒章を受章。1998年(平成10年)に前立腺癌が発覚。このことは長らく伏せられており、仕事の間を縫って定期的に治療を行っていた。2001年(平成13年)、勲四等旭日小綬章を受章。2010年(平成22年)、癌が頸椎へ転移。2012年(平成24年)夏頃から体調を崩し、同年9月13日に入院。これに伴い、9月24日以降の『小沢昭一の小沢昭一的こころ』は過去の放送回の中より傑作選を放送していた。10月22日に退院した後も自宅で療養を続け、『小沢昭一の小沢昭一的こころ』11月16日放送回では自宅で録音したメッセージを寄せ、復帰に意欲を見せていた。2012年(平成24年)12月10日、前立腺がんのため、東京都内の自宅で死去。享年83。
日活の映画俳優として、競輪におぼれる僧侶、性風俗を究める若人、正体不明の中国人バイヤーといった強烈な役を多くこなし、個性派俳優としての地位を確立。39年間続けたラジオでは、宮坂さん一家なる架空の一家を独演。「徹子の部屋」ではほぼ毎回コスプレで登場し、時にその衣装があまりに過激で驚かされることもあった。私にとって小沢昭一は、いい意味で「変人」という一言がピタリくる人だと思っている。ありとあらゆる手段で見るものを笑わせたかと思えば、自身の戦争体験や哀調たっぷりの『ハーモニカブルース』で泣かせてきたり、埋もれていた民衆芸能に光をあて後世に伝えたりする。今にして思えば、小沢昭一ほど「芸能人」という言葉があてはまる人はいないのかもしれない。芸を愛し続けた名バイプレイヤーの墓は、東京都墨田区の弘福寺にある。墓には「小澤家之墓」とあり、左側面に墓誌が刻む。戒名は「洽昭院澹然一哲居士」。