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永 六輔(1933~2016)

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永 六輔(えい ろくすけ)

放送作家・作詞家
1933年(昭和8年)~2016年(平成28年)


1933年(昭和8年)、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区元浅草)の最尊寺の息子として生まれる。本名は、永 孝雄(えい たかお)。1944年(昭和19年)、東京都下谷区(現在の台東区)の国民学校に通っていたが、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村の国民学校に転校。ここで食糧難やいじめといった辛い体験をし、生家の最尊寺が空襲で焼けてしまうなど、このときの戦争体験は生涯を通して強い影響を及ぼす。1945年(昭和20年)、疎開先で終戦を迎える。1946年(昭和21年)、長野県立上田中学校に入学するが、翌年東京へ戻り、早稲田中学校に2年編入で転校。その後、同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため、3年で高等学校に昇級進学して卒業。この間、ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。この頃、学校をさぼって実家から近い国際劇場を本拠地にしていた松竹歌劇団のレビューを見続け、後の放送作家やテレビ演出活動の原点となる。また、NHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになる。その後『日曜娯楽版』の発案者である三木鶏郎にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家デビュー。1952年(昭和27年)、テレビの実験放送の台本づくりに参加。同年、早稲田大学第二文学部を中退。1958年(昭和33年)、日本テレビ系『光子の窓』の構成を担当し、正式にテレビ界にも進出。同年、若手の文化人らと「若い日本の会」を結成し、安保改正に反対。1959年(昭和34年)、ラジオ関東『昨日のつづき』の構成を担当。当初は放送作家が執筆した台本に基づいて出演者が進行する予定だったが、当時は民間放送の開局ラッシュという状況に比してまだ人数が少なかった放送作家は引っ張りだこであり、執筆が間に合わなかったことから、放送作家が自ら出演することになり、日本初のフリートーク番組が誕生した。同年、偶然出会った作曲家・中村八大に声をかけられ、水原弘が歌った『黒い花びら』で作詞家デビュー。この曲で第1回日本レコード大賞を受賞した。1960年(昭和35年)、安保デモに参加して脚本を落とし、さらに永を捜してデモ現場に駆け付けた日本テレビの担当者の「安保と番組、どっちが大事なんだ!」との問いに「安保です」と答えたため、ディレクターの井原高忠の逆鱗に触れ『光子の窓』を降板。その後、NHKに移り『夢であいましょう』の作・構成を担当。番組ごとに毎回テーマを設け、それに沿ったショートコントで進行し、その合間に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱などを挿入した。また、歌手のコント出演やコメディアンの歌唱などの企画は、後続のバラエティショー番組の原型ともなった。1963年(昭和38年)、梓みちよが歌った『こんにちは赤ちゃん』で第5回日本レコード大賞を受賞。1963年(昭和38年)、坂本九が歌った『上を向いて歩こう』が日本語詞のまま全米ヒットチャートで3週連続1位の快挙を達成し、『スキヤキソング』として世界的な大ヒットとなった。しかし、テレビに出れば何でも流行すること、永が多くの詞を提供し共通の友人であった作曲家の中村八大といずみたくの2人が互いの曲を意識しあっていたことに複雑な思いを抱いていたこと、シンガーソングライターの出現で「自分が歌いたい歌を作詞すればよい」と思うようになったということから、徐々に作詞活動から後退し、1970年代からは付き合いを除く作詞活動から撤退した。1967年(昭和42年)、TBSラジオ『永六輔の誰かとどこかで』の放送がスタート。46年9ヶ月も続く長寿番組となり、この頃からラジオの活動に重きをおくようになった。1970年(昭和45年)、TBSラジオ『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』の放送開始。同年、読売テレビ『六輔さすらいの旅・遠くへ行きたい』の放送が開始となったが、観光やグルメの要素を加えたいスタッフと対立し、翌年に降板した。1974年(昭和49年)、野坂昭如・小沢昭一と中年御三家を結成。日本武道館でコンサートを行い、ビートルズ以来と言われるほどの盛況となった。1976年(昭和51年)、メートル法の施行によって尺貫法が禁止となり、古来長く使われてきた尺貫法を用いることや曲尺鯨尺の販売が処罰の対象となってしまう状況に疑問を呈し、日本の伝統を支える全国の職人たちの仕事が立ち行かなくなることを世の中に広く訴えて、尺貫法の復権に貢献。「鯨尺を作ったから計量法違反で逮捕しに来いと」警察を挑発したり、尺貫法の例外的使用を日本国政府に認めさせたりする等、尺貫法復権運動に奔走した。1977年(昭和52年)、革新自由連合の結成に参加し、政治活動にも進出。1979年(昭和54年)、NHK『ばらえてい テレビファソラシド』の構成を担当。自らも出演したが、ラジオ中心の活動に戻りたいという考えを持っていたことから、開始から3年後に番組は終了した。1983年(昭和58年)、第13回参議院議員通常選挙に比例代表区から出馬したが落選。以降選挙への立候補からは撤退した。1991年(平成2年)、TBSラジオ『土曜ワイドラジオTOKYO・永六輔その新世界』の放送開始。1994年(平成6年)、『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。2000年(平成12年)、菊池寛賞を受賞。2009年(平成21年)、『週刊女性』に呂律が回らなくなったと報じられ、そのときは加齢と入れ歯のせいだとしていたが、翌年にパーキンソン病と診断されたことを公表。9月30日には、前立腺癌とパーキンソン病と闘病しながら活動を行う永を密着取材したドキュメンタリー番組『永六輔 戦いの夏』がNHKで放送された。一時は引退も考えたと語る事もあったが、投薬治療されるようになってからは症状が良くなりラジオでも会話が滑らかになっていた。しかし、パーキンソン病の影響で歩行が困難になり、さらに2011年(平成23年)11月16日夕、東京都内の自宅で転倒して大腿骨頸部を骨折し入院・手術。永の強い意志で仕事は極力休まず、ラジオのレギュラーは病室からのゲスト参加や収録という形式が採られた。同12月27日、イベントへ車椅子で参加。以後、レギュラー2番組の放送・収録は病院からスタジオへ赴いた。翌年1月17日に退院し、リハビリは継続して行った。2013年(平成25年)、毎日芸術賞特別賞を受賞。2015年(平成27年)、『土曜ワイドラジオTOKYO・永六輔その新世界』を引き継ぐ形で、TBSラジオ『六輔七転八倒九十分』の放送開始。しかし、2016年(平成28年)6月27日の放送を以って「六輔七転八倒九十分」が終了し、全レギュラー番組を降板した。同年7月7日午後1時57分、東京都内の自宅で肺炎のため死去。享年83。


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日本の放送業界でマルチに活躍した永六輔。放送作家、作詞家、テレビタレント、ラジオパーソナリティーと幅広く活動し、一つの肩書に留まらない放送人だった。小生が初めて永六輔を認識したのは、「咳・こえ・喉に浅田飴」でおなじみのCMだった。この人が坂本九の一連のヒット曲を手がけた人だと知ったときの驚き、そして自分が納得しないことが起こるとすぐに怒って場をメチャクチャにする姿にも驚いた。鼻につくようなうんちくトークにも何度となく辟易したが、故人となってしまった今では懐かしい思い出である。晩年は度重なる病との闘いで生きているのもやっとの状態だったが、決して情熱を失うことなく何度も回復してラジオに戻ってきた。仕事に執念を燃やした彼も、残念ながら昨年の七夕に旅立ってしまった。永六輔の墓は、東京都台東区にある生家・最尊寺にある。墓には直筆で「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 永六輔」とあり、その下に「生きているということは 誰かに借りをつくること 生きていくということは その借りを返していくこと 永六輔」と書かれた碑が設置されている。墓誌は右横に刻まれている。最尊寺は浄土真宗のため、戒名ではなく法名の「釋 孝雄」がつけられている。

Commented by 石井 隆 at 2020-04-12 16:01 x
7月7日の命日に、お墓参りさせて頂きたいのですが宜しいでしょうか。
by oku-taka | 2017-08-15 17:31 | テレビ・ラジオ関係者 | Comments(1)