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坂本九(1941~1985)

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坂本 九(さかもと きゅう)

歌手・タレント
1941年(昭和16年)~1985年(昭和60年)


1941年(昭和16年)、神奈川県川崎市川崎区に生まれる。本名は、大島 九(おおしま ひさし)。川崎市で荷役請負業「丸木組」の社長・坂本寛と妻・いくの第9子として誕生したことから「九」と命名された。幼少時から兄弟や花街という土地柄や稼業などの影響で、邦楽はもとより洋楽の影響も多分に受けて育ち、ジャズ、シャンソン、芝居、日舞、三味線、邦楽など、一通りの影響を強く受けた。 このときに受けた邦楽・洋楽の素養が、後の独特の歌唱法に活かされていく。高校生の時に両親が離婚。九など下の兄弟は母親に引き取られ、姓は坂本から大島に変わった。この前後からエルヴィス・プレスリーに憧れるようになり、プレスリーの物まねをやらせたら右に出る物がいないと言われたほど、仲間内で人気者となった。日本大学横浜学園に進学後は、当時不良の音楽で一部の若者たちに流行り始めていたロックン・ロールに熱を上げ、歌手を目指すようになる。その後、立川の将校クラブでアメリカ人を相手にエルビス・プレスリーの「Hound dog」リトル・リチャードの「Send me Some Lovin'」を歌ったのを皮きりに、バンドボーイとして米軍キャンプやジャズ喫茶を回り始める。1958年(昭和33年)、当時ロカビリーバンドとして活動していたザ・ドリフターズに加入し、ボーカル兼ギターを担当。しかし、芸能界の苦しさを経験し、母親の反対を押し切って入った芸能界がどうも間違いだったと思い始めていた坂本は、学校を休学して芸能活動をしていたことから「芸能界を一旦休業して学業に専念する」と引退。これを渡辺美佐の妹・曲直瀬信子が坂本家まで通い、坂本と母親を強く説得。そしてドリフターズのリーダーであった岸部清も説得し、事実上の引き抜きという形でドリフターズを脱退。 水原弘の抜けたダニー飯田とパラダイス・キングの一員としてビクターレコードと契約した。1959年(昭和34年)、『題名のない唄だけど』でレコードデビュー。しかし、なかなかヒットに恵まれず、1960年(昭和35年)には事務所の意向を無視して第3回日劇ウエスタンカーニバルに無理やりに出演し、ロカビリー歌手として新人賞を獲得してしまった。同年7月、東芝音楽出版(後の東芝レコード)に移籍。移籍後第1弾シングルとして発売した『悲しき六十才』が10万枚を売り上げ、初ヒットとなった。1961年(昭和36年)、『上を向いて歩こう』を発売。この作品以降、作詞の永六輔、作曲の中村八大による作品を多く歌うようになり、3人合わせて六八九トリオと呼ばれた。同年、NHK紅白歌合戦に初出場。歌手として活動を続ける傍ら、テレビタレントとしても活躍し、NHKの『夢であいましょう』『若い季節』、日本テレビ系『男嫌い』などに出演。お茶の間のアイドルとして地位を築いていった。1963年(昭和38年)、『上を見て歩こう』が『SUKIYAKI』というタイトルに改題され、日本国外で大ヒットする。アメリカではもっとも権威のあるヒットチャート誌『ビルボード』の "Billboard Hot 100" で3週連続1位を獲得し、"Billboard Hot 100" で1位を獲得した唯一の日本人アーティストとして今なおこの記録は破られていない。キャッシュボックス(Cash Box)誌でも4週連続1位を獲得した。 ヒットに伴い、坂本はスティーブ・アレン・ショーに招かれ渡米。翌年には、米国内でのレコード累計販売枚数が100万枚を超え、坂本は日本人初の「ゴールドディスク」を受賞した。『上を向いて歩こう』の海外でのヒットによって世界的に名前が知られた坂本は、1964年(昭和39年)の第18回オリンピック東京大会のウェルカムパーティーにゲストとして招かれたり、1970年(昭和45年)開催の日本万国博覧会で若手芸能人の万国博委員に起用されたりと、国際的な活動が多くなる。一方、1962年(昭和37年)に札幌テレビ放送主催の下で開かれた小児麻痺の為の「チャリティーショー」に無報酬で出演して以来、毎年10年間北海道でチャリティーショーを続けた。それをきっかけに1976年(昭和51年)には札幌テレビ放送制作の福祉番組「ふれあい広場・サンデー九」がスタート。この番組は急逝まで9年間、日曜朝9時から30分間放送された。この他に、「あゆみの箱」運動、手話を広げる運動といった障碍者福祉関係の慈善活動に積極的に参加し、1979年(昭和54年)には日本初の手話の歌『そして想い出』を発表した。1971年(昭和46年)、女優の柏木由紀子と結婚。この頃には歌手としての活動が少なくなっており、NHK『新・八犬伝』の語り手や、TBS系『キッチン・パトロール』フジテレビ系『スター千夜一夜』NHK『この人○○ショー』の司会といった仕事を多くこなした。1985年(昭和60年)、レコードレーベルをファンハウスに移籍。5月22日に移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売し、再び歌手活動を本格化させようとしていた。8月9日には、中村八大のコンサートにて「もう一度、六・八・九としてやり直したい、歌手としてやり直したい」という意志を伝え、中村と再度の意気投合を誓った。8月12日、坂本はNHK-FM放送で『歌謡スペシャル 秋一番!坂本九』の収録を行い、これが生前最後の仕事となった。この番組の中で坂本は同年6月8日に「古賀政男記念音楽大賞」で入賞したことに触れ、「とても嬉しかった。これからも皆さんと一緒に、いつまでも歌い続けていきたい」と、将来への抱負を語っていた。その後、大阪府にいた元マネージャーの選挙応援として翌13日に行われる事務所開きに駆けつける途中、日本航空123便墜落事故に遭遇し死去。享年43。坂本は本来、国内移動には日本航空(JAL)ではなく必ず全日空(ANA)を使っており、所属プロダクションや妻の由紀子も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった。しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日本航空123便であった。坂本が所属するマナセプロダクションの小宮勝廣マネージャーは早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に搭乗。墜落から99時間後の16日、家族らによって遺体が確認された。遺体は損傷が激しかったが、普段から身に着けていた笠間稲荷神社のペンダントが胸に突き刺さっていた事と首の太さが確認の決め手となった。また、墜落現場では両手で足首を掴み頭を膝の中に入れる「安全姿勢」をとった状態で発見されており、即死状態であったという。


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「九ちゃん」の愛称で親しまれた坂本九。テレビ草創期に颯爽と現れ、テレビに歌にと大活躍した国民的スターであった。いつもどんなときでも顔をクシャッとさせた笑顔で画面に登場し、見事なエンターティナーぶりを見せてくれた。そんな彼が、日本の交通事故史上最悪ともいえる航空機事故に巻き込まれ、悲運の死を遂げてから今日で32年。『上を向いて歩こう』『見上げてごらん夜の星を』『明日があるさ』といった名曲の数々は今なお多くの人を勇気づけ、歌い継がれている。いつの時代でも国民に希望を与えてくれている坂本九の墓は、東京都港区の長谷寺にある。洋型の墓には「坂本九」とあり、左側に墓誌が建つ。入口の墓石には「上を向いて歩こう 一九六四年ゴールデンレコード受賞 世界中の人々に愛された」と刻まれている。戒名は「天真院九心玄聲居士」


by oku-taka | 2017-08-12 23:30 | 音楽家 | Comments(0)