人気ブログランキング | 話題のタグを見る

宇野千代(1897~1996)

宇野千代(1897~1996)_f0368298_22171207.jpg

宇野 千代(うの ちよ)

作家
1897年(明治30年)~1996年(平成8年)


1897年(明治30年)、山口県玖珂郡(現在の岩国市)に生まれる。父親は、実家が造り酒屋を営む大金持ちだったこともあって生涯生業につかず、実家からの仕送りで放蕩無頼に生きた。母親は千代が2歳のときに亡くなり、その後、父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚。千代は実母と思って育ち、大変慕っていた。この継母が『おはん』のモデルとされている。1911年(明治44年)、父の命により14歳という若さで義母の姉の子(従兄)である藤村亮一と結婚。しかし、10日ほどで実家へ帰った。この頃から文学に興味を待ち始め、変名で『女子文壇』などの雑誌に投稿していた。1914年(大正3年)、岩国高等女学校(現在の山口県立岩国高等学校)を卒業。川上村小学校の代用教員となるが、翌年に同僚教師との恋愛が問題となり退職。知人を頼って朝鮮・京城へ行くが、翌年に帰国。元夫の弟で第三高等学校の学生だった藤村忠を頼って京都に出向き、そのまま同棲。1917年(大正6年)、忠の東京帝国大学入学に伴い上京。婦人記者、家庭教師、女店員など職を転々として暮らし、本郷三丁目の西洋料理店「燕楽軒」で給仕のアルバイトを18日間している間に久米正雄や芥川龍之介と知り合い、今東光とは親交を結んだ。1919年(大正8年)、藤村忠と結婚。翌年、忠の北海道拓殖銀行就職で北海道・札幌へ転居。1921年(大正10年)『時事新報』の懸賞短編小説に応募した『脂粉の顔』が一等で当選。文章で大金が得られることに驚き、“藤村千代”の名で執筆活動に専念する。1922年(大正11年)、滝田樗陰に『墓を暴く』を送ったが、一向に返事がないので上京したところ、すでに掲載されていたことを知り、その場で原稿料366円をもらう。その足で岩国の実家に戻り、母親に原稿料の一部を渡す。北海道に戻る途中、今後の打ち合わせとお礼を兼ねて中央公論に立ち寄った際に尾崎士郎を紹介され、一目惚れした千代はそのまま東京で暮らし始める。1924年(大正13年)、藤村忠と協議離婚し、尾崎士郎と結婚。同年、筆名を“宇野千代”とする。1928年(昭和3年)、川端康成の誘いで、伊豆の湯ケ島に逗留。ここで、梶井基次郎、三好達治、藤沢恒夫らと知り合い、以後たびたび同地に滞在した。しかし、梶井基次郎との関係が噂となり尾崎と別居。1930年(昭和5年)、尾崎と正式に離婚。その後、情死未遂事件を起こして話題となった画家・東郷青児と取材を通して会い、同棲を始める。1934年(昭和9年)、東郷が情死未遂事件を起こした女性とよりを戻したことから完全別居。同年、東郷はその女性と結婚した。1935年(昭和10年)、東郷との関係を描いた『色ざんげ』を中央公論社から刊行し、千代の代表作の一つとなった。1936年(昭和11年)、スタイル社を設立。表紙絵は藤田嗣治、題字は東郷青児が描いたファッション雑誌『スタイル』を発刊し、日本初のファッション専門誌として人気を博す。1937年(昭和12年)、千代のもとに取材で訪れた都新聞(現在の東京新聞)学芸部記者の北原武夫と恋仲となり、雑誌『スタイル』の編集にも参画した。1938年(昭和13年)には、千代の熱心な勧めで北原は作家生活に入る決意を固め、都新聞社を退社。その後発表した処女作『妻』が注目を浴び、芥川賞候補となった。同年、三好達治編集による文芸誌「文體」をスタイル社から創刊。1939年(昭和14年)、北原武夫と正式に結婚。1942年(昭和17年)、雑誌『スタイル』を『女性生活』ヘ改題するが、1944年(昭和19年)戦時統制のためスタイル社を解散。1946年(昭和21年)、北原を社長、千代を副社長としてスタイル社を再興。復刊した雑誌『スタイル』は大きな反響を呼び、記録的な売上を見せた。1947年(昭和22年)、文芸誌「文體」を復刊。千代の代表作となる「おはん」を同誌で連載する。1949年(昭和24年)、「宇野千代きもの研究所」を設立。1952年(昭和27年)、大手出版社から「スタイル」に類似の豪華雑誌が相次いで発行され始め、次第に売り上げ不振となる。追い討ちをかけるように同業者の投書による脱税摘発が行われ、経営を揺るがす。スタイル社の経営は事務員任せで管理されておらず、帳簿の管理もずさんなものであった。その後、国税庁の査定が入り、追徴金まで加えると億に近い金額にも上った。1957年(昭和32年)、スタイル社は会社更生法の適用を受けて再発足するが、1959年(昭和34年)4月に不渡り手形を出して完全に倒産。末期は銀行からの融資の道が完全に閉ざされ、作家・北原武夫個人としての借り入れで凌いだが、その負債は8千数百万円にも上った。銀座の土地建物、熱海の別荘、木挽町の豪邸、新築間もない栃木の北原の父の住居が人手に渡り、千代は「きもの」の売り上げで、北原は中間小説などの文筆収入で返済に奔走した。その間、中央公論社から発刊した『おはん』が高い評価を受け、第1回野間文芸賞と第9回女流文学者賞を受賞。1961年(昭和36年)にはドナルド・キーンによる英訳本がアメリカで、翌年にはイギリスでも刊行されるほどのベストセラーとなった。また、アメリカ・シアトルで開催された万国博覧会で自身がデザインした着物ショーを開催し、これが機となって女性用の着物を作るようになる。最初の1枚は随筆の原稿料5000円で縮緬の白生地を買い、染は売れたときの後払いとして、今度は一反もあいまいな品物がないよう在庫を管理した。商品は次第に増え、1967年(昭和42年)には「株式会社 宇野千代」を開くまでに成功した。1964年(昭和39年)、借金を完済させる。同年9月、北原武夫と離婚。1960年代に入ると戦後10年近く沈黙していた千代は再び執筆活動に入り、『女の日記』『刺す』『風の音』等を発表。1970年(昭和45年)『幸福』で女流文学賞を受賞。1972年(昭和47年)、日本芸術院賞を受賞。1973年(昭和48年)、勲三等瑞宝章を受章。1982年(昭和57年)、菊池寛賞を受賞。この頃から女性向けの恋愛論・幸福論・長寿論などのエッセイを数多く執筆。1983年(昭和58年)に発表された『生きて行く私』は自伝的小説として千代の代名詞となり、100万部を越えるベストセラーとなった。晩年に到るまで旺盛な活動を続け、自身の長寿『私、何だか死なないような気がするんですよ』というエッセイにしてまとめるなど、最期まで現役の作家であり続けた。 1996年(平成8年)6月10日午後4時15分、急性肺炎のため東京都港区の虎ノ門病院で死去。享年98。没後、勲二等瑞宝章が追贈された。


宇野千代(1897~1996)_f0368298_22212313.jpg

宇野千代(1897~1996)_f0368298_22212563.jpg

明治・大正・昭和・平成にかけ、波乱に富んだ生涯を送った女流作家・宇野千代。多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持つ彼女は、まさに肉食系女子の元祖と言えよう。恋愛に対するその恐ろしいまでの奔放さには、ただただ驚かされるばかりである。今の世だと間違いなくインターネット上で槍玉にあげられ、炎上不可避の事案ばかりだ。華やかな恋愛模様に彩られた98年の生涯を自由に駆け抜け、その時その時の事象に全力を傾けた宇野千代の墓は、山口県岩国市の教蓮寺と東京都港区の梅窓院に分骨されている。梅窓院にある墓には「幸福は幸福を呼ぶ 宇野千代」と彫られている。墓誌および戒名はない。


by oku-taka | 2017-08-12 22:56 | 文学者 | Comments(0)