2017年 08月 12日
榎本健一(1904~1970)

榎本 健一(えのもと けんいち)
喜劇俳優
1904年(明治37年)~1970年(昭和45年)
1904年(明治37年)、東京市赤坂区青山(現在の東京都港区青山)に生まれる。幼少期に母を亡くし、その家系の祖母が引き取るが、その祖母も死去。再婚して麻布で煎餅屋を営んでいた父親の元で育てられるものの、幼い頃より“エノケン”と呼ばれた腕白小僧で、背は小さいが動きがすばやく、父や義母を困らせた。生来のやんちゃな性格が仇となり、学校から親が呼び出されることがしばしばあり、5回転校を繰り返した後、1919年(大正8年)麻布尋常高等小学校高等科を卒業した。中学生になると浅草へ頻繁に遊びに行くようになり、オペラや芝居に親しんだ。中でも活動写真に夢中となり、当時人気絶頂であった映画俳優・尾上松之助に弟子入りすべく家を出るが失敗している。1922年(大正11年)、父の死により家業を継ぐが、義母とは反りが合わず、せんべい屋の仕事にもなじめなかったため俳優を目指すようになり、友人の紹介で浅草オペラ「根岸大歌劇団」の俳優・柳田貞一に弟子入りし、浅草・金竜館で初舞台を踏む。同年、「根岸大歌劇団」がジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』を初演し、そのコーラスでデビューした。その後もコーラス・ボーイとして、佐々紅華の創作オペラ『勧進帳』などに出演。徐々に頭角を現すが、1923年(大正12年)の正月公演で猿蟹合戦の猿役を演じたとき、ハプニングでお櫃からこぼれた米粒を、猿の動きを真似て、愛嬌たっぷりに拾いながら食べるアドリブが観客に受け、喜劇役者を志すきっかけとなる。しかし、その後の関東大震災で浅草が壊滅的な被害に遭い、榎本は浅草を離れ、当時流行の最先端であった活動写真の撮影所がある京都・嵐山に移る。ここで喜劇的な寸劇を仲間らと演じながら、“榎本健”の芸名で東亜キネマ京都撮影所、中根龍太郎喜劇プロダクションの端役俳優を務めた。1929年(昭和4年)、古巣の浅草に戻り「カジノ・フォーリー」を旗揚げするが、ほどなく解散。その後、今度は自らが中心となり中第二次カジノフォーリーを結成。常連客であった川端康成が小説「浅草紅団」で紹介したのがきっかけで注目されるようになり、浅草オペラをベースとしながら米国のスラップスティックに影響を受けたスピーディな動きと愛敬ある表情、従来の喜劇とは一線を画したナンセンスなアドリブのギャグでたちまち人気者となった。しかし、1930年(昭和5年)にカジノフォーリーの幹部の裏切りに遭い、新カジノフォーリーを作って浅草観音劇場に出るが長続きせず、同年浅草・玉木座で公演していた清水金太郎らの「プペ・ダンサント」に合流。その後、浅草・オペラ座の開場と同時に歌手の二村定一と二人座長となった「ピエル・ブリヤント」を旗揚げ。後に「エノケン一座」と名を変え、手だけで舞台の幕を駆け上る、走っている車の扉から出て反対の扉からまた入るというエノケンの「動き」の激しい芸が人気を博した。それに目をつけた松竹はエノケン一座を破格の契約金で専属にむかえ、浅草の松竹座で常打ちの喜劇を公演し、下町での地盤を確固たるものとした。一方、東宝の前身であるトーキー専門会社・PCL映画製作所の映画にも出演。その第1作『エノケンの青春酔虎伝』は、トーキー初期のヒット作となり、その後も山本嘉次郎とは度々コンビを組んだ。また、歌手としても浅草時代からコロムビアの廉価盤「リーガル」レーベルや、ビクターに『モンパパ』などをレコーディングしていたが、1936年(昭和11年)にポリドール専属の歌手となり、多くの曲を吹き込んだ。当時、アメリカで流行し始めたジャズを取り入れ、『洒落男』『私の青空』『エノケンの月光価千金』『エノケンのダイナ 』など既に他歌手の歌唱でヒットしていた和製ジャズの流行歌を、自分のキャラクターにあわせカバーしたり、『リリ・オム』『南京豆売り』『アロハ・オエ』など、外国曲を原詞とは全く関係の無いストーリーに沿った歌詞で歌いヒットした。映画においても、『エノケンの千万長者』『エノケンの近藤勇』『エノケンのちゃっきり金太』など、ミュージカル風に話が進行するエノケン映画はいずれもヒットとなった。1941年(昭和16年)には、中国ロケを敢行し、当時の人気俳優らと共演した映画『エノケンの孫悟空』が大ヒットとなった。しかし、第二次世界大戦の激化によってコメディ映画の制作数は激減し、その他の映画においても国策に賛同する役柄を演じさせられることが多くなり、そのキャリアと人気は停滞を余儀なくされた。戦後は笠置シヅ子とコンビを組み、有楽座の舞台を連日満員にするほどの大当たりとなった。映画でも『エノケンのびっくりしゃっくり時代』『歌うエノケン捕物帖』『エノケン・笠置のお染久松』などがヒットした。1947年(昭和22年)、過去に「犬猿の仲」といわれた古川ロッパと東京有楽座『弥次喜多道中膝栗毛』で初共演。直後の映画『新馬鹿時代』でも共演し、ともに話題を呼んだ。1952年(昭和27年)、かつて舞台で孫悟空を演じた際に如意棒を左足に落としたことが原因で発病した脱疽が再発。右足の指を切断することになった。その後は主に舞台に活躍の場を移し、1954年(昭和29年)には古川ロッパ、柳家金語楼と「日本喜劇人協会」を結成。自ら会長となり、喜劇人協会の公演などで軽演劇を演じ続けた。1957年(昭和32年)、まだ26歳だった長男の鍈一が死去。1960年(昭和35年)には喜劇人として初となる紫綬褒章を受章したが、1962年(昭和37年)病魔が再発し、右足を大腿部から切断。失意から自殺未遂を繰り返すなど私生活では次々と不幸に見舞われたが、後妻の献身的な看護と、病床を訪ねた喜劇王ハロルド・ロイドの励ましにより、生きる気力を取り戻した。その後、精巧な義足を得て、舞台・映画に復帰。1966年(昭和41年)には芸術祭奨励賞を受賞した。怪我の悪化で舞台活動は少なくなったが、それと比例してテレビでの活躍が増え、ドラマ「おじいちゃま、ハイ」や歌番組への出演、「渡辺のジュースの素」「サンヨー・カラーテレビ」などのコマーシャルソングで話題を集めた。一方、映画演劇研究所を開設して後進の育成指導に勤めた。晩年は長年の飲酒癖で肝臓を患い、追い討ちをかけるように1969年(昭和44年)の中華民国巡業中に、エージェントに出演料を騙し取られ、この時の精神的ダメージで体調がさらに悪化。そんな中、同年12月に帝国劇場で公演された『浅草交響樂』の『最後の伝令』で、台湾公演から帰国後に空港から駆け付け車椅子姿で演出を担当。その直後の1970年(昭和45年)元旦に激しく体調を崩し、周りの者の勧めで神田駿河台の日大病院に緊急入院。3日後には昏睡状態に陥り、更に3日後の1月7日午後2時50分、肝硬変により死去。享年65。没後、勲四等旭日小綬章が贈られた。


日本の喜劇王・榎本健一。そのスピード感と思わず目を見張る軽妙な動きで日本の喜劇を創り上げ、没後40年を越えた今なおその功績は高く評価されている。映画・舞台で一時代を築いた彼だが、歌手としてのエノケンも実に良い。歌は決して上手くはないが、コメディアンらしく軽いノリで歌っていることから聴いていて非常に心地よく、あのしゃがれ声が何とも病み付きになってしまう。特に『洒落男』『エノケンの月光値千金』あたりはオススメである。まさに稀代のエンターテイナーであったエノケンだが、晩年は愛息の死、妻との離婚、右脚切断、スタッフによる金の持ち逃げなど、決して恵まれた私生活ではなかった。それでも、そうした不幸さを微塵も感じさせなかったことは、さすが日本の喜劇王だと言わざるを得ない。一世を風靡したエノケンの墓は、東京都港区の長谷寺にある。墓には「榎本家之墓」とあり、墓所入口に「従五位勲四等 喜劇王エノケンここに眠る」と刻まれた石碑がある。墓誌はない。戒名は「天真院殿喜王如春大居士」

