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阿久悠(1937~2007)

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阿久 悠(あく ゆう)

作詞家
1937年(昭和12年)~2007年(平成19年)


1937年(昭和12年)、兵庫県津名郡鮎原村(現在の洲本市五色町鮎原)に生まれる。本名は、深田 公之(ふかだ ひろゆき)。幼少期は兵庫県警巡査であった父親の仕事の都合で、数年おきに淡路島内での転居を繰り返す。高校時代は映画に夢中となり、次第に映画の脚本を書く夢を抱くようになる。1955年(昭和30年)、兵庫県立洲本高等学校を卒業し、明治大学文学部に進学。1959年(昭和34年)、大学を卒業し、当時人気テレビ番組「月光仮面」を制作していた広告代理店・宣弘社に入社。コピーライターやCM制作を手がけるようになる。その一方で、1964年(昭和39年)にオフィス・トゥ・ワンに所属。番組企画集団「城悠輔とブラックバックス」に参加し、アルバイトとしてテレビ番組の台本を書き始める。この頃から、“悪友”をもじった“阿久悠”なるペンネームで活動を開始した。1965年(昭和40年)、企画書を書いた日本テレビ系音楽番組「世界に飛び出せ!ニューエレキサウンド」の放送がスタート。レギュラー出演者だった田辺昭知とザ・スパイダースのために曲を書くことになり、同年『フリフリ』のB面曲『モンキー・ダンス』で作詞家デビューを果たす。1966年(昭和41年)、宣弘社を退社し、放送作家として独立。音楽番組やバラエティ番組を週7~8本担当しながら、音楽番組で歌われる歌の歌詞を写して作詞の勉強をした。1967年(昭和42年)、ホリプロより依頼を受けて書いたザ・モップスのシングル『朝まで待てない』がヒット。その後、『白いサンゴ礁』(ズー・ニー・ヴー/昭和44年)、『白い蝶のサンバ』(森山加代子/昭和45年)、『ざんげの値打ちもない』(北原ミレイ/昭和45年)と手がけた作品が相次いで大ヒットし、作詞家としての評価が高まる。1971年(昭和46年)、企画書を書いた公開オーディション番組「スター誕生!」(日本テレビ)の放送がスタート。各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げるというスタイルを生み出し、また自らも審査員として出演。森昌子、桜田淳子、ピンク・レディー、岩崎宏美といった数多くのスターを発掘した。同年、尾崎紀世彦に提供した『また逢う日まで』で自身初となる第13回日本レコード大賞を受賞。以降、5度にわたって日本レコード大賞を受賞し、大賞受賞曲は作詞家として最多の5曲という記録を樹立。1973年(昭和48年)、『ジョニィへの伝言』(ペドロ&カプリシャス)、『じんじんさせて』(山本リンダ)で第15回日本レコード大賞作詩賞を受賞。こちらも以後7回受賞し、受賞最多記録となっている。1974年(昭和49年)、『さらば友よ』(森進一)で第7回日本作詩大賞を受賞。以降、8回受賞し、日本レコード大賞作詩賞と同じく最多記録を樹立。その後も作詞家として数々のヒット曲を送り出し、歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広いジャンルを手がけた。1977年(昭和52年)には、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」という子ども向け専門レーベルを創設し、『おはよう!こどもショー』のコーナーなどで歌われた。同年、スポーツニッポン紙上でバイオレンス小説「ゴリラの首の懸賞金」の連載をスタートし、作家としても活動する。 1979年(昭和54年)、スポーツニッポン紙上で「甲子園の詩」の連載をスタート。以降27年間続く夏の風物詩となる。同年、『瀬戸内少年野球団』を発表し、第82回直木賞候補となる。1980年代に入るとニューミュージックのアーテストが台頭し、叙情よりも感性や実体験の詞が受けるようになり、阿久作品の売り上げは苦戦を強いられるようになる。さらに、後進の作詞家である松本隆や秋元康らが台頭してきたことから、以降は小説執筆や演歌の作詞などに比重を移した。1982年(昭和57年)、『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。1997年(平成9年)、第45回菊池寛賞を受賞。1999年(平成11年)、紫綬褒章を受章。2001年(平成13年)、腎臓癌を患い、同年9月12日に癌の摘出手術を受けた。それ以後は癌治療を受けつつ、病身を押して活動を続けていたが、2007年(平成19年)8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去。享年70。没後、旭日小綬章、第49回日本レコード大賞特別功労賞が贈られた。


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20世紀を代表する作詞家・阿久悠。1970年代の歌謡曲黄金時代に出されたヒット曲のほとんどを手がけ、生涯に作詞した曲は5,000曲以上に上ると言われている。シングル売上枚数は6834.0万枚を誇り、2015年(平成27年)に秋元康に抜かれるまで歴代1位に君臨していた。その阿久悠は今年生誕80年、そして没後10年を迎える。テレビ番組は盛んに彼の特集を組み、その功績を今に伝えている。時代を創り続けた男・阿久悠の墓は、東京都港区の長谷寺にある。当初は静岡県伊東市宇佐美にある先祖代々の母に納められていたが、7回忌の際にこちらへと改葬された。墓には「悠久」とあり、右側に墓誌が建つ。左側には、直筆による「君の唇に色あせぬ言葉を」が彫られた碑がある。戒名は「天翔院詞聖悠久居士」。


by oku-taka | 2017-08-06 00:32 | 音楽家 | Comments(0)