人気ブログランキング | 話題のタグを見る

山村聰(1910~2000)

山村聰(1910~2000)_f0368298_01325696.jpg

山村 聰(やまむら そう)

俳優
1910年(明治43年)~2000年(平成12年)


1910年(明治43年)、奈良県天理市に生まれる。本名は、古賀 寛定(こが ひろさだ)。神戸一中・一高を経て、東京帝国大学文学部に進学。在学中に演劇に関心を持ち、研究劇団「太陽座」の演出部に加入。1935年(昭和10年)、大学卒業とともに関西松竹新派に加盟し、舞台俳優としてデビュー。1937年(昭和12年)、東京松竹で井上正夫が率いていた「井上演劇道場」に転じる。1942年(昭和17年)、同劇団を脱退し、佐佐木隆、鈴木光枝、山形勲らと劇団文化座を結成。1946年(昭和21年)、『命ある限り』で映画初出演。1947年(昭和22年)、溝口健二監督作品の『女優 須磨子の恋』で、田中絹代演じる松井須磨子の愛人役・島村抱月役に抜擢され、重厚な演技が注目された。以後、東宝の演技派として多くの映画に出演し、スター俳優としての地位を獲得。1950年(昭和25年)には、小津安二郎監督作品の『宗方姉妹』で第1回ブルーリボン賞の主演男優賞を受賞した。1952年(昭和27年)、東宝砧撮影所の芸能部長であった山田典吾と共に独立プロ「現代ぷろだくしょん」を設立。翌年には自ら脚本・監督・主演を務めた『蟹工船』を発表。多額の出資をして完成させたこの作品は、興行的に成功しただけでなくチェコ映画祭監督賞にも選ばれた。以後、映画監督として6本の映画を撮る活躍をし、1954年(昭和29年)に発表した監督2作目『黒い潮』ではブルーリボン賞の新人賞を受賞した。1958年(昭和33年)、英語が堪能であったことから20世紀フォックス製作の映画『黒船』(ジョン・ヒューストン監督)に下田奉行役で出演し、海外進出を果たす。1960年代に入るとテレビ界にも進出。1964年(昭和39年)、TBS系列ドラマ『ただいま11人』に出演。作品の大ヒットにより、以降橋田壽賀子・石井ふく子が手がけたホームドラマに多く起用されるようになり、「理想の父親像」としてお茶の間の人気を集めた。1967年(昭和42年)からはトヨタ・クラウンのCMキャラクターを務め、16年間という長期間にわたり出演した。1970年(昭和45年)、黒澤明が監督を降板した真珠湾攻撃を描いた日米合作の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』で連合艦隊司令長官山本五十六を演じ、国際的にも知名度が高まった。私生活では熱心な釣り人として知られ、1974年(昭和49年)には『釣りひとり』という著書を出版した。また東京・銀座に自身の釣具店「ポイント」を経営していた。1977年(昭和52年)に紫綬褒章、1983年(昭和58年)には勲四等旭日小綬章を受章。1996年(平成8年)、86歳で舞台「父(チャン)と呼べ」を初演出して話題となったが、同年10月の舞台「女たちの忠臣蔵」を最後に一線を退いた。2000年(平成12年)5月26日午後4時40分、急性心筋梗塞のため東京都中野区の病院で死去。享年90。


山村聰(1910~2000)_f0368298_01422162.jpg

山村聰(1910~2000)_f0368298_01422295.jpg

時に大物政治家、時に恰幅の良い軍人、時に良き父親…どの役であっても「重厚」という言葉が感じられた役者・山村聰。日本演劇界で最も多く総理大臣を演じた俳優として知られる彼だが、『日本のいちばん長い日』で演じた米内光政のような軍人役が山村聰には一番似合っていたように思う。平均寿命もしくは若くして旅立つ映画スターが多い中、90年で生涯を終えたことはまさに天寿を全うしたと言ってよいだろう。日本演劇史に燦然と名を残す名優の墓は、東京都港区の青山霊園にある。墓には「古賀家奥津城」とあるが、これは山村聰の祖父が幕末の佐賀藩士で初代品川県知事を務めていたことからに由来すると思われる。広大な敷地の左側には墓誌が建ち、戒名の「古賀寛定大人命」の文字が刻まれている。

by oku-taka | 2017-07-30 01:19 | 俳優・女優 | Comments(0)