2017年 07月 29日
安井かずみ(1939~1994)

安井 かずみ(やすい かずみ)
作詞家
1939年(昭和14年)~1994年(平成6年)
1939年(昭和14年)、神奈川県横浜市に生まれる。資産家の家系に生まれた彼女は何不自由なく育ち、その後フェリス女学院に進学。勉学に勤しむ傍ら、茶道、華道、ヴァイオリン、ピアノ、バレエ、日舞、フランス語、英語、油絵と様々な教養を身につけた。その中でも美術の世界に憧れるようになり、美術大学への進学を目指すも結果は不合格。両親の薦めで文化学院美術科に入学した。その後、学校の通い道にあったイタリアンレストラン「キャンティ」にのめり込み、ここで様々な年代の階層の人々と親交を深める。1961年(昭和36年)、ラフマニノフの楽譜を買うために入った新興音楽出版社(現在のシンコーミュージック・エンタテイメント)でアメリカンポップスのヒット曲の訳詞をしているところに居合わせ、持ち前の語学力で翻訳のためのアイデアをアドバイス。その語学力と独特の発想による歌詞を気に入った訳詞家・漣健児の薦めで、坂本九が歌ったエルヴィス・プレスリーのヒット曲『GIブルース』で訳詩家デビュー。“みナみカズみ”のペンネームで、『ヘイ・ポーラ』(田辺靖雄&梓みちよ/昭和37年)、『レモンのキッス』(ザ・ピーナッツ/昭和37年)と次々にアメリカンポップスをヒットさせていった。その後、名前をペンネームから本名に戻し、キャンティで親しくなった渡辺美佐を通じて渡辺音楽出版にマネージメントを任せ、渡辺プロ所属の歌手を中心に詞を書いて行くようになる。1964年(昭和39年)、園まりが歌った『何も云わないで』が大ヒットし、オリジナルヒット第一号となる。1965年(昭和40年)、伊東ゆかりが歌った『おしゃべりな真珠』で第7回日本レコード大賞作詞賞を受賞。1966年(昭和41年)、ジョーン・バエズが歌って世界的大ヒットとなった『ドンナ・ドンナ』を訳詩し、『ドナ・ドナ』として岸洋子が歌ったバージョンがNHKの歌番組「みんなのうた」で放送され、一躍知名度が広がる。同年、青年実業家とローマにて結婚。その後も、『青空のある限り』(ザ・ワイルドワンズ/昭和42年)、『恋のしずく』(伊東ゆかり/昭和43年)とヒットを連発。しかし、多忙な生活の為に夫婦生活がすれ違いになってしまったことから、1968年(昭和43年)にニューヨークへ移住。アクセサリーのデザインと製作・販売で収入を得る暮らしに変えたものの、先行きの不安とアメリカでの孤独な生活に耐えきれず、翌年に離婚。一人で帰国した彼女は、沢田研二のソロアルバム『JULIE』で作詞家として復帰。以降、『経験』(辺見マリ/昭和45年)、『わたしの城下町』(小柳ルミ子/昭和46年)、『激しい恋』(西城秀樹/昭和47年)と、手がけた作品が相次いで大ヒット。私生活においても、海外旅行がめずらしかった当時に世界中を旅をして貴族や有名人と優雅な生活を送って話題を呼んだ。1977年(昭和52年)、ミュージシャンの加藤和彦と再婚。二人の優雅な結婚生活は新たなライフスタイルの提案として多くの雑誌やテレビなどで取り上げられ、憧れの夫婦として支持された。一方、加藤との出会いによって他の歌手の作詞を断るようになり、主婦業と加藤作品での作詞のみを行うという生活を送る。その後も夫婦でテレビ出演をする傍ら、コンスタントにエッセイストとしても活動していたが、1992年(平成4年)、身体の不調を訴え病院で検査を受けたところ、末期の肺癌であることが判明。加藤の希望で本人には宣告されず、緩和治療によって、1994年(平成6年)3月17日、肺癌のため逝去。享年55。「金色のダンスシューズが散らばって、私は人形のよう」が絶筆であった。



昭和40年代に多数のヒット曲を世に送り出し、岩谷時子、有馬三恵子、山口洋子といった他の女性作詞家たちとともに歌謡曲黄金時代を支えた安井かずみ。彼女の作品は、乙女チックなものから官能的なもの、いかにも歯の浮くような希望的讃歌から『シー・シー・シー』(ザ・タイガース)のようなワケわからない歌まで実に幅広い。あの派手なファッションとメイクで着飾っていた姿からは想像もつかない作品ばかりで、その変幻自在さには驚かされるばかりだ。そんな安井かずみは、敬虔なクリスチャンの家庭で生まれたことからキリスト教を信仰しており、死の直前には洗礼を受けている。そうしたことから、自身が所属していた鳥居坂教会の共同墓地(東京都港区の青山霊園にある)に埋葬された。墓の右横には墓誌があり、そこには「加藤かずみ」と刻まれている。

