2017年 07月 11日
立川清登(1929~1985)
立川 清登(たちかわ すみと)
声楽家
1929年(昭和4年)~1985年(昭和60年)
1929年(昭和4年)、大分県大分市に生まれる。本名は、立川 澄人(たつかわ すみと)。大分県立別府第二高等学校(現在の大分県立芸術緑丘高等学校)卒業後、津久見第二中学校の教師となるが、別府第二高等学校音楽科の新設の話を聞き3ヶ月で教師を辞職。3年生として入学した後、1949年(昭和24年)に東京藝術大学へ進学。マルガレーテ・ネトケレーヴェ、中山悌一に師事し、在学中の1953年(昭和28年)にオペラ『椿姫』のジェルモン役でデビュー。卒業後の1955年(昭和30年)には二期会に入会し、以後中心歌手として活躍。『魔笛』のパパゲーノ、『セビリヤの理髪師』のフィガロなど、次々に主役を演じた。1959年(昭和34年)、毎日音楽賞を受賞。1960年(昭和35年)、NHKの『音楽をどうぞ』の司会に抜擢。細い目をした親しみやすい風貌と機知にとんだ語り口が評判を呼び、1963年(昭和38年)のNHK紅白歌合戦に初出場となるほどの人気となる。その後も、歌劇、ミュージカル、テレビ、ラジオと幅広く出演し、本業の歌手以外でも司会やテレビタレントとして活躍した。1965年(昭和40年)、『セビリヤの理髪師』などでテアトロン賞を受賞。1960年代後半には、芸名を「立川 清登」に改名。これは、テレビ・ラジオ等で紹介される度に「たちかわ」と思い込んだ視聴者・聴取者からの「誤りではないか」との問い合わせが放送局に相次いだことから、混乱を防ぐためにやむなく芸名を改名するに至った。改名後は、オペラのみならずクラシック、民謡、流行歌といった幅広いレパートリーをこなし、『みんなのうた』で放送された「大きな古時計」、1980年(昭和55年)にリリースされた「阪神タイガースの歌」は代表曲となった。また、気取らない人柄が茶の間の支持を集め、NHK『世界の音楽』の司会、フジテレビ系列『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員、FM東京系列『新日鐵アワー・音楽の森』の2代目パーソナリティー、毎日放送(MBS)の土曜朝のワイドショー番組『すてきな出逢い いい朝8時』の2代目司会を務めた。1977年(昭和52年)からは、NHK教育テレビの小学2年生向け学校放送番組『うたって・ゴー』にも出演し、「たちかわのおじさん」として親しまれた。1985年(昭和60年)12月10日、鳥取県米子市内のホテルで開かれたディナーショーにて、最後の曲「メモリー」を歌唱中、身体の不調を訴えそのまま入院。持病の高血圧が原因による脳幹出血により意識不明となる。一時は意識を回復したものの、左半身麻痺を併発。12月31日、治療の甲斐なく都内の病院にて脳溢血により死去。享年56。翌年の1月4日、司会を務めていた『すてきな出逢い いい朝8時』では追悼企画を組み、サブ司会者のうつみ宮土理と野村啓司アナウンサーが立川の思い出を振り返った。また、同年1月13日、審査員を務めていた『オールスター家族対抗歌合戦』で追悼特番を放送し、同じく審査員の近江俊郎が弔辞を読み号泣した。
おそらく存命だったときは日本で一番知られている声楽家だったのではないだろうか。バリトン歌手としての実力はさることながら、幅広いレパートリーを武器に様々な音楽番組に出演。その親しみやすい口調と笑顔でお茶の間の支持をも獲得し、果てはワイドショーの司会にまで就いた。まさに絶頂期でまだまだこれからという矢先、突然の病でこの世を去ってしまった立川清登。急逝から早30年、多くの人から親しまれた朗らかな声楽家の墓は、東京都あきる野市の西多摩霊園にある。洋型の墓には「立川家」とあり、背面に墓誌が刻まれている。左横には彼を偲ぶモニュメントが建てられ、そこには「歌」と書かれた直筆と『魔笛』の一説が彫られている。戒名は「清響院釈明澄」