2017年 07月 11日
山本嘉次郎(1902~1974)
山本 嘉次郎(やまもと かじろう)
映画監督
1902年(明治35年)~1974年(昭和49年)
1902年(明治35年)、東京府東京市銀座采女町で生まれる。10代で帰山教正らの純映画劇運動の洗礼を受け、若い頃から映画に興味を持つ。1920年(大正9年)、慶應義塾大学を中退し、映画『真夏の夜の夢』に“平田延介”の芸名で出演し、俳優としてデビューする。しかし、それが原因で親から勘当され、その手切金で「無名映画協会」を設立した。1922年(大正11年)、日活に入社。助監督を務める傍ら、田坂具隆監督の『春と娘』の脚本を手がけ、経験を積む。その後、帝国キネマを経て、関西で結成された早川プロに参加し、1924年(大正13年)山本嘉次郎として『熱火の十字球』で監督デビュー。その後、マキノプロ、高松プロなどで監督や俳優を務め、1926年(大正15年)に日活金曜会の一員となる。後に日活大将軍撮影所の脚本部に移り、数々のシナリオを担当した。1932年(昭和7年)、再び日活に入り、『細君新戦術』で監督業を本格化。1934年(昭和9年)、PCLに移籍。『エノケンの青春酔虎伝』(1934年・昭和9年)『エノケンのちゃっきり金太』(1937年・昭和12年)といった榎本健一の喜劇映画を多く手がけ、明朗喜劇の監督として頭角を現す。こうした娯楽映画に軽妙な演出ぶりを見せる一方、『坊ちゃん』『良人の貞操』といった文芸ものも手掛け、いずれも大ヒットとなった。特に『綴方教室』(1938年・昭和13年)と『馬』(1941年・昭和16年)は、従来扱われていなかった世界を取り上げた佳作として高い評価を受けた。第二次世界大戦中は、『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年・昭和17年)、『加藤隼戦闘隊』(1944年・昭和19年)といった戦争映画を制作し、歴史的ヒットを記録した。戦後も東宝で喜劇作品など多くを監督。1948年(昭和23年)には、本木荘二郎らと映画芸術協会を設立し、『風の子』『春の戯れ』などの佳作を発表した。その後も、『ホープさん』(1951年・昭和26年)、東宝で初のカラー映画『花の中の娘たち』(1953年・昭和28年)といった話題作を制作し、健在ぶりをアピールした。晩年は監督作品に恵まれなかったが、脚本を多数執筆。また、「カツドウヤ」を自称する小粋な生き方は多くの文化人をひきつけ、多くの著書を発表した。非常に好奇心が強く、博学かつグルメであったため、姓名をもじって「ナンデモカジロウ」とあだ名された。そうしたことから、徳川夢声司会のラジオ番組『話の泉』に、サトウ・ハチロー、堀内敬三らと出演し、その博学ぶりを披露して人気を集めた。1960年代には東宝の俳優養成所の所長を務め、後進の指導にあたった。時には自ら指導を行なう真摯な態度は研修生たちに慕われ、尊敬の念をもって「ヤマカジ先生」と呼ばれた。著名な門下生に、映画監督の黒澤明、女優の高峰秀子、俳優の黒部進らがいる。1974年(昭和49年)6月、脳軟化症を起し、ついで肝硬変を発症。9月21日、動脈硬化のため死去。享年72。
喜劇・文芸といったジャンルで東宝映画の黎明期を支えた映画監督・山本嘉次郎。彼の特筆すべき功績は、やはり世界的映画監督となった黒澤明と、日本映画史に燦然と輝く女優・高峰秀子を育てたことであろう。高峰と山本の間にはこんなエピソードがある。戦時下の昭和20年、映画撮影の休憩中に高峰秀子が宿屋から退屈そうに空を眺めていると、山本嘉次郎が彼女の横に腰を下ろした。「デコ、一人で何を考えているの?」「なにも考えてないよ」「デコ、目の前の松の木はどうしてこっち向いてるの?」「わかんない」「向こうに海があるから、そっちから風が吹いてきて、きっとこの松はだんだんこっちへ歪んだんだよ」「……」「役者というものはね、普通の人がタクワン食べて『臭いなー』と思うのを『くっさーい!!』と感じなきゃやっていけない商売だから、これからは松の木見たら『どうして曲がってるんのかな?』という風に、どうしてかな?なぜかしら?という風に何でも考えてみると、人生はそんなにつまんなくないし、退屈でもないよ」…仕事に面白さを感じられなかった子役時代の高峰に山本が放った言葉。この話を、彼女は徹子の部屋に出演した際(平成元年8月14日放送)に語り、女優として生きていく決意をさせたと懐かしそうに話していた。多くのヒット作と映画人を生み出した山本嘉次郎の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。洋型の墓には「山本家」とあり、背面に墓誌が刻まれている。戒名は「智泉院釋醉綠」