2017年 06月 11日
千代の富士貢(1955~2016)
千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ)
力士
1955年(昭和30年)~2016年(平成28年)
1955年(昭和30年)、北海道松前郡福島町に生まれる。本名は、秋元 貢。生家は漁師を営んでおり、子供の頃から漁業を手伝っていたことから自然に足腰が鍛えられた。中学校時代は運動神経が抜群で、特に陸上競技では走り高跳び・三段跳びの地方大会で優勝し、オリンピック選手候補とまで言われた。そんな中学1年生のとき、発症した盲腸炎の手術を受けたところ、秋元少年の腹の筋肉が厚いために手こずって予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終了直前に麻酔が切れてしまった。それでも必死に耐え続ける姿を見た病院長が見出し、千代の山(後の九重昌治)の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎に連絡。その連絡を受けた九重が直々に勧誘したが、相撲嫌いの秋元少年は気があまり乗らず、両親も入門に大反対したため断わった。それでも諦めない九重は秋元少年に対して「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機に乗っけてあげるよ」「中学の間だけでも(相撲を)やってみて、後のことを考えたらどうだ?」などと持ちかけ、飛行機にどうしても乗りたかった秋元少年は、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた。1970年(昭和45年)、本名のまま9月場所で初土俵を踏み、翌11月場所で序ノ口「大秋元」と改名。1971年(昭和46年)、1月場所で「千代の冨士」と名付けられた。四股名の由来は、九重の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱・北の富士から取られた。体重100kg以下という小兵ながら気性の激しさを表す取り口で順調に出世し、1974年(昭和49年)11月場所で十両昇進、史上初の5文字四股名の関取となった。1975年(昭和50年)9月場所で昭和30年代生まれの力士としては第一号の新入幕を果たし、二日目には幕内初白星を元大関大受から挙げる。しかし、相撲の粗さが元で5勝10敗と負け越し、その後幕下まで陥落。人並み以上の奮起で帰り十両を果たすが、以前から課題だった左肩の脱臼が顕在化。取り口も力任せの強引な投げ技を得意としていたため左肩にますます負担がかかり、度重なる脱臼に悩まされ、2年間を十両で過ごすことになる。1977年(昭和52年)頃から頭をつける体格に合った相撲が見られるようになり、その成果もあって脱臼も幾分か治まり、1978年(昭和53年)1月場所には再入幕を果たした。同年5月場所では、13日目の対貴ノ花戦で頭を付けて懐に入ってから強烈な引き付けで貴ノ花の上体を起こし、貴ノ花が左からおっつけるところを一気に寄り切るという会心の相撲で勝利し、銀星と勝ち越しを同時に手にする大きな白星を挙げるなど、この場所は9勝6敗の成績を挙げて初の敢闘賞を受賞した。この活躍から同年7月場所では新小結の座につき、貴ノ花・旭國の2大関を破ったが、5勝10敗と負け越し。さらに、1979年(昭和54年)3月場所の播竜山戦で右肩を脱臼して途中休場し、全治1年、手術すれば2年という重大な怪我を負う。このとき、三重県四日市中央病院の藤井院長から「手術すれば半年は稽古ができない」「もし2カ月で治したいなら筋力トレーニングを行い肩の周辺を筋肉で固めなさい。」と言われたことから、肩を筋肉で固めるという対策に活路を見出し、毎日500回の腕立て伏せ・ウェイトトレーニングに励んで脱臼を克服。同年5月場所は十両に陥落したものの、取組中のケガだったことから公傷制度を利用して肩の治療に専念するはずだった。しかし、手続きの不手際で公傷と認められないことが場所の直前になって発覚したため、このまま休場すれば幕下陥落の危機もあったことから3日目より強行出場。9勝を挙げて同年7月場所に幕内へ復帰した。肩の脱臼を受け、それまでの強引な投げから前廻しを取ってからの一気の寄りという形を完成させ、1980年(昭和55年)3月場所から幕内上位に定着。横綱・大関陣を次々と倒して人気者となり、同年9月場所には小結で幕内初の二桁勝利となる10勝5敗の成績を挙げた。11月場所に新関脇へ昇進すると初日から8連勝し、11勝4敗の成績を挙げた。1981年(昭和56年)1月場所は前場所をはるかに上回る快進撃で、若乃花を真っ向勝負で寄り倒すなど初日から14連勝を記録。1敗で迎えた千秋楽では、北の湖を右からの上手出し投げで下し、幕内初優勝を果たした。千秋楽の大相撲中継視聴率は52.2%、千代の富士の優勝が決まった瞬間の最高視聴率は65.3%に達し、現在でも大相撲中継の最高記録となっている。場所後に千代の富士の大関昇進が決定。新大関で迎えた3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所には千秋楽で北の湖を破って14勝1敗の成績で2度目の優勝を果たし、横綱を掴んだ。新横綱となった同年9月場所の2日目、ライバルと言われた隆の里との取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見る。新横綱誕生の期待が一転して失望に変わり、この休場で「不祥事」「短命か」などと批判されたが、同年11月場所では12勝3敗の成績で朝汐との優勝決定戦を制して横綱としての初優勝を飾ることで復活を見せた。この場所も14日目に隆の里に敗れている。この年、千代の富士は同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成した。また、細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から若い女性や子供まで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得て「ウルフフィーバー」を巻き起こした。1982年(昭和57年)には3連覇を達成し初の年間最多勝を記録するが、1984年(昭和59年)年明けから振るわず、3月場所は右股関節捻挫で中日から途中休場。同年5月場所は2年ぶりの優勝を目指す北の湖敏満から一方的な寄りを受けて11勝4敗に終わった。同年7月場所は左肩の脱臼で全休したほか、同年9月場所は入幕2場所目の小錦の突き押しにあっけなく敗れ、横綱としての責任を問われることになった。同年11月場所は久々に優勝したが、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から限界説が流れ始める。しかし、両国国技館のこけら落としとなった1985年(昭和60年)1月場所は全勝優勝を果たし、この年は史上3人目となる年間80勝を達成。3年ぶり2度目の年間最多勝にも輝いた。1986年(昭和61年)5月場所から1987年(昭和57年)1月場所まで5連覇を達成。その後、わずかに崩れたことで「千代の富士時代は終わりに近づいた」との声が高まり「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートまで実施されたが、その声を打ち消すかのように、1988年(昭和63年)5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝を記録した。1989年(昭和64年)1月場所も優勝候補筆頭だったが、雑な相撲が目立ち、8日目に寺尾に敗れて以降は優勝争いから後退、11勝4敗に終わる。追い打ちをかけるように、2月に誕生したばかりの三女がSIDS(乳幼児突然死症候群)で生後4か月足らずで6月に死去。自身や家族も精神的ショックが大きく、周囲が「もう相撲は取れないのではないか」と心配したが、7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、12勝3敗の成績ながらも千秋楽の優勝決定戦にて同部屋の弟弟子・横綱北勝海を下して奇跡の優勝を果たした。同年9月場所には通算勝ち星の新記録を達成し、同年9月28日に大相撲で初となる「国民栄誉賞」授与が決定した。1990年(平成2年)1月場所には優勝回数を30と大台に乗せ、3月場所の7日目には花ノ国戦に勝利して前人未踏だった通算1000勝の大記録を達成した。しかし、5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、旭富士の横綱昇進の引き立て役になった。さらに夏巡業で左足を痛めて9月場所を全休。35歳という年齢から引退を囁かれたが、11月場所に復帰して14日目に31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けた。1991年(平成3年)1月場所初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位の記録を達成したが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場し、翌場所も全休した。復帰場所となった5月場所は、初日に新鋭・貴花田(のち貴乃花)と対戦するが、まわしが取れず頭をつけられて寄り切りで敗れた。再燃する引退説をこの時は否定し、翌日の板井戦は勝利したものの納得いく相撲とは程遠く、「もう1敗したら引退する」と決意して3日目の貴闘力戦に挑んだがとったりで完敗。この貴闘力戦の取組を最後に、当日の夜九重部屋にて緊急記者会見して現役引退を表明。「体力の限界!…気力も無くなり、引退することになりました」との言葉を残して相撲人生を終えた。日本相撲協会はその理事会において功績顕著として全会一致で一代年寄を認めたが、将来的に九重部屋を継ぐことが決まっていたため、同じ九重部屋に所属していた16代・陣幕(元前頭・嶋錦)と千代の富士自身が所有していた年寄・八角の名跡交換を行い、17代・陣幕を襲名し九重部屋の部屋付きの親方となった。1992年(平成4年)4月に師匠の九重(元横綱・北の富士)と名跡交換し、九重部屋を継承。しかし、まもなく先代・九重との考え方の違いなどもあり、1993年(平成5年)弟弟子の八角(元横綱・北勝海)が10月に九重部屋から独立し八角部屋を創設する際、陣幕を含む部屋付の年寄全員が同部屋に移籍することになった。さらに、施設も旧九重のものを継承し、九重の方が部屋を出て行く形となったため、九重は自宅を改装して部屋を新設した。日本相撲協会では、1994年(平成6年)に武蔵川と揃って役員待遇に昇格し、審判部副部長を務めていたが、評議員が少ない高砂一門に所属しており、さらに一門内でも外様出身であるため、理事に立候補することが出来ずにいた。しかし、2007年(平成19年)半ばより始まる朝青龍のトラブルや時津風部屋力士暴行死事件で角界が大揺れの中、一門代表の理事・高砂が朝青龍の師匠として責任を問われたことにより、2008年(平成20年)2月からようやく理事に就任し、広報部長・指導普及部長を務めた。審判部の職から離れたことでNHKの大相撲中継の解説者として登場することが可能となり、2008年3月場所8日目には15年ぶりに正面解説席で幕内取組の解説を務めた。その後の理事選挙には、高砂一門から立候補して当選を果たし、新弟子検査担当・ドーピング委員長を兼任する審判部長に就任した。理事長が放駒に代わった後の体制では巡業部長を務めたが、2012年(平成24年)の理事改選で再選されるが最下位当選。しかし、直後の改選理事による理事会において、貴乃花とともに北の湖の理事長就任に尽力したことから、論功行賞により2月の職掌任命において、事実上のナンバー2である事業部長に就任した。しかし、2014年(平成26年)の理事改選では最下位である5票しか獲得できず、11人の候補者中唯一の落選となった。現職の事業部長の落選は史上初であったが、理事・九重への悪評は「豪傑すぎる言動」として常時指摘されており、同年4月の職務分担では委員に降格した。2015年(平成27年)5月31日、還暦の誕生日の前日に両国国技館で「還暦土俵入り」を披露。それから僅か1か月後に「内臓疾患」として7月場所を全休。同年9月場所で復帰した際に、同年6月の定期検診で癌が見つかっていたこと、膵臓癌の手術を受けていたことを自ら述べた。2016年(平成28年)に入ってから癌が再発。胃や肺などに転移しており、鹿児島県などで放射線治療などを受け続けていたが、3月場所の頃から急激にやせ細り、7月場所の4日目からは体調不良を訴え休場し入院していた。7月31日17時11分、東京大学医学部附属病院にて膵臓癌のため死去。享年61。
数多くいる「昭和の大横綱」の中で、最後の大横綱となったのが第58代横綱・千代の富士。圧倒的な強さと端正な顔立ちで、昭和から平成にかけて「ウルフ・フィーバー」を巻き起こした。それなのに、引退後は八百長疑惑や相撲協会における冷遇など一時代を築いたスーパースターとは思えぬ扱いっぷりに度々驚かされた。現役時代に見せた豪傑すぎる取組と言動の反動からなのか、誰も彼を擁護する人がいなかったことが相撲界の大きな闇に感じられた。彼が亡くなったとき、各マスコミがその訃報を大々的に取り扱い、関係者や知人から惜しむ声が相次いで挙がったが、それがせめてもの餞だったように思う。61歳という若さで旅立った小さき大横綱の墓は、東京都台東区の玉林寺にある。墓には「秋元家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「千久院殿金剛貢力優梢禅大居士」