人気ブログランキング | 話題のタグを見る

東八郎(1936~1988)


東八郎(1936~1988)_f0368298_01190938.png

東 八郎(あずま はちろう)

コメディアン
1936年(昭和11年)~1988年(昭和63年)


1936年(昭和11年)、東京府東京市浅草区 (現在の東京都台東区浅草) に生まれる。本名は、飛田 義一(ひだ ぎいち)。幼少期より両親に浅草へ連れられ、当時人気だった芝居やミュージカルを見て過ごす。その後、劇場で観たタップダンスを人前で披露するようになり、人前に立つ喜びを知るようになる。1954年(昭和29年)、母の知り合いであったオペラ歌手の田谷力三に弟子入り。しかし、滑舌が悪く譜面も読めなかったため、弟子入りから3か月後にコメディアンを目指すよう言われてしまう。1955年(昭和30年)、浅草公園六区の浅草フランス座に入団。フランス座を経営する東洋興業創業者の松倉宇七にちなみ、東八郎の芸名で初舞台を踏む。しかし、吃音だったことから踊り子目当ての客の冷たい対応に苦しみ、劇場からもクビを宣告されてしまう。先輩の嘆願でクビを免れた八郎は、必死に舞台を見て誰の代役でもできるほどに芸を磨き、1961年(昭和36年)頃には劇場のトップコメディアンに上り詰めた。その後、テレビの台頭と共に浅草の演劇街が衰退してきたため、1964年(昭和39年)に小島三児、原田健二と共にトリオ・ザ・スカイラインを結成し、テレビ界に進出。コントで人気を博したものも、1971年(昭和46年)に解散。以降は単独で芸能活動を行い、1972年(昭和47年)より放送を開始したNHK『お笑いオンステージ』にレギュラー出演したことで人気を博す。その後、『志村けんのバカ殿様』の家老役や、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲をバックに「光」のシールを額に貼って登場する「ヨード卵光」のコマーシャルなど、人気コメディアンとしてテレビやCMに数多く出演。また、日本テレビ『お笑いスター誕生』の審査員や、東八郎劇団を結成するなど後進の育成にも力を注ぎ、1986年(昭和61年)には芸能人養成のために私塾「笑塾」を開いた。一方で歌手としても活動し、1981年(昭和56年)に発売した『娘へのバラード』は、結婚披露宴で歌われる定番曲のひとつとなった。1986年(昭和61年)、第14回日本放送演芸大賞話題賞を受賞。 1987年(昭和62年)、第3回浅草芸能大賞奨励賞を受賞。1988年(昭和63年)7月6日、自宅で脳溢血のため突然倒れ、日本医科大学付属病院に緊急搬送されたが、意識が回復することなく同日15時30分に急死した。享年52。


東八郎(1936~1988)_f0368298_01214875.jpg

東八郎(1936~1988)_f0368298_01215035.jpg

『お笑いオンステージ』で三波伸介とともに人気を博し、「頑張れ、強いぞ、僕らのなまか〜」という『赤胴鈴之助』のテーマ曲の替え歌ギャグで一世を風靡した東八郎。没して30年近く、今や東MAX(東貴博)の父という認識のほうが強くなってしまった。もっと言ってしまえば、『志村けんのバカ殿様』の家老役を桑野信義ではなく東八郎がやっていたことを覚えている人は、もうほとんどいないのではないだろうか。まだまだこれからという時であったのに、52歳という早すぎる旅立ちが非常に残念でならない。東北訛りに近い喋りと人懐っこい笑顔で庶民派の喜劇をお茶の間に届けてくれた東八郎の墓は、東京都台東区の妙泉寺メモリアルガーデン上野にある。墓には「人は心 飛田家」とあり、左横に墓誌が建つ。右側面には「平成十五年 春彼岸 建之 施主 飛田貴博」とあるので、おそらく東貴博によってこの霊園に改葬されたものと思われる。戒名は「深義院柔和法楽信士」


by oku-taka | 2017-05-31 00:47 | コメディアン | Comments(0)