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黒川紀章(1934~2007)

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黒川 紀章(くろかわ きしょう)

建築家
1934年(昭和9年)~2007年(平成19年)


1934年(昭和9年)、愛知県海部郡蟹江町に生まれる。本名は、黒川 紀章(くろかわ のりあき)。建築家であった父・黒川巳喜の影響を受け、幼少期の頃から建築家を志す。1950年(昭和25年)、東海高校に入学。当校の宗教教育「共生の思想」が、その後の人生に大きな影響を与える。1953年(昭和28年)、京都大学工学部建築学科に進学。在学中は西山卯三に師事した。1957年(昭和32年)、同校を卒業後、東京大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程へ進学。東大では丹下健三研究室に所属し、槇文彦、磯崎新、谷口吉生らと共に丹下の指導を受ける。1954年(昭和29年)、伊勢湾台風により郷里が甚大な被害を受ける。 このときの体験が、後の建築哲学に決定的な影響を与えた。1955年(昭和30年)、東大在学中に「株式会社黒川紀章建築都市設計事務所」を設立。1959年(昭和34年)、浅田孝、槇文彦、粟津潔、栄久庵憲司らと共に、建築や都市は生物と同じように代謝(メタボリズム)を繰り返して成長する有機体であり、時代や用途の変化に応じて設計すべきであるという建築理論「メタボリズム」を提唱。1960年(昭和35年)にはメタボリズム・グループとして世界デザイン会議に参加し、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。中でも、水田の上に家を造ることによって、洪水で田圃が沈んでも命と家は守ることができるという発想から生まれた「農村都市計画」は、世界に衝撃を与えた。こうした活動で学生時代から国際的に名を知られるようになった黒川は、1962年(昭和37年)に黒川紀章建築都市設計事務所を設立し、丹下の下から独立を果たした。1964年(昭和39年)、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程単位を取得し、退学。1969年(昭和44年)、株式会社アーバンデザインコンサルタントと社会工学研究所を設立。1970年(昭和45年)、大阪で開催された日本万国博覧会のパビリオンを任され、東芝IHI館、タカラビューティリオン、空中テーマ館を設計。建築物を生き物として捉え、細胞分裂するように各部分の取り外しが可能なパビリオンは一躍注目の的となり、黒川紀章の名が世間に広く知られるようになる。その後も、中銀カプセルタワービル(1972年)、六本木プリンスホテル(1984年)、名古屋市美術館(1988年)など「自然との共生」に基づいた建築物を次々に発表。さらに、黒川の建築思想は世界にも受け入れられ、マレーシアのクアラルンプール新国際空港やカザフスタンの新首都・アスタナの都市計画を任されるなど、日本を代表する建築家にまで上り詰めた。1978年、毎日芸術賞を受賞。1983年(昭和58年)、テレビ番組での共演をきっかけに、長年のファンだった女優の若尾文子と結婚。1986年(昭和61年)、建築界のノーベル賞ともいわれているフランス建築アカデミーゴールドメダルを受賞。1987年(昭和62年)、「共生の思想」を出版。建築界のみならず、財界や他の分野にも大きな影響を与え、イギリスやアメリカなどでも英語版として出版されるなど、広く読まれることとなった。 1989年(平成元年)、世界建築ビエンナーレ・グランプリ・ゴールドメダル、フランス芸術文化勲章を受賞。日本においても、1990年(平成2年)に日本建築学会賞、1992年(平成4年)に日本藝術院賞を受賞している。2006年(平成18年)、文化功労者に選出。2007年(平成19年)、「石原氏とは親しいが、議会無視、側近政治、無意味な五輪招致など目に余る」と東京都知事選挙に出馬を表明。3月16日には共生新党を立ち上げ、主要4候補の一人としてテレビ討論に出演するなどメディアに取り上げられるも落選。その後、7月29日の参院選に出馬。自らがデザインした円形のガラス張り選挙カーを使用し、新宿西口で演説中の石原慎太郎候補の近くに来て、妻と共に石原裕次郎の「銀座の恋の物語」を歌うなど、独自のパフォーマンスを繰り広げ話題を集めたが、結果は10位のドクター・中松に2万票差をつけられる11位で大敗。共生新党は議席を得られなかった。参院選出馬のわずか2ヵ月後の10月12日午前8時42分、多臓器不全のため東京女子医科大学病院で死去。享年73。夫人・若尾文子によれば、前日11日に同病院で診察を受けたところ、検査入院を勧められて入院したばかりだったという。


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未来を先取りするような作品と言論で時代の寵児となった黒川紀章。1970年(昭和45年)2月27日号の週刊ポストに「女子大生がシビレる建築界の鉄腕アトム 黒川紀章」という記事が載り、同年12月に発売されたサンデー毎日には「街で聞いたカッコいい男」で12位にランクされるなど、理想の紳士像として持て囃されていた時代があった。その後も素敵なオジサマとして女性からの支持が高かった黒川紀章だが、突如として都知事選に出馬することを表明。世界的な建築家だからなせる業なのか、天才だからなせる業なのか未だによくわからないが、その度肝を抜く派手な選挙パフォーマンスには度々驚かされた。それだけに、選挙で大敗を喫した数か月後の訃報には本当に衝撃的だった。今にして思えば、この奇抜な選挙活動も、天下の映画女優・若尾文子が夫の活動に反対せず黙って支援していたのも、黒川の死期が近いことを誰もが悟っていたからかもしれない。最後までメディアを駆使して大衆にアピールし続けた世界的建築家の墓は、東京都港区の長青山梅窓院にある。縦に細長い墓には「黒川家之墓」とあり、左横に墓誌が刻む。戒名は「至聖院範空功道居士」


by oku-taka | 2017-05-28 01:26 | 衣・食・住 関係者 | Comments(0)